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米国防長官にもらった(?)特ダネ ――SDI構想と日本(高畑 昭男)2017年3月

32年前の寒い冬の思い出から書き始めたい。1985年2月8日の昼前。私は35歳、生まれて初めて海外勤務を命じられ、ロンドンに赴任して3年目に入ったばかりの駆け出し特派員だった。

 

当時の毎日新聞ロンドン支局は、茶色にくすんだレンガ建ての古いビルと石畳の街路で囲まれたフリート街の一角、「UPIビル」の3階にあった。エレベーターも旧式で、鉄パイプの折りたたみドアを手で開けて乗り込み、ボタンを押すとゴトゴトと音を立てて箱がゆっくりと動き始める。

 

せっかちな私には、その音がまるで「落ち着け、落ち着け」とささやいているように聞こえた。小さな支局にたどり着くと、コートを脱ぐ間ももどかしく、奥の小部屋に鎮座しているテレックス台に向かった。

 

真冬の英国は雪が少ないものの、鉛色の空から湿った冷気があらゆる隙間を通してじわじわ染みてくる。スチーム暖房で、エアコンなどない時代だから、室内でも吐く息がやたらに白かったのを覚えている。

 

なぜ、そんなに慌てていたのかというと、この日午前、在英アメリカ大使館で訪英中のキャスパー・ワインバーガー米国防長官による記者会見が開かれたからである。

 

レーガン米大統領は1983年3月、ソ連の核の脅威に対抗するために「敵ミサイルが米国や同盟国に到達する前に迎撃して破壊する研究に着手する。核ミサイルを無効にし、時代遅れにする手段を開発する」という戦略防衛構想(SDI、通称スターウォーズ計画)を発表し、世界に衝撃を広げていた。

 

米ソ両国が膨大な核を保有しあうことで恐怖の均衡を維持する――という冷戦時代の「相互確証破壊(MAD)」の常識を打破する画期的な構想だ。現代日本の防衛に欠かせない技術となっている「ミサイル防衛(MD)」の前身でもある。

 

ワインバーガー長官は話題のSDI構想を引っ提げて英国と西ドイツを訪問し、共同研究に参加を呼び掛ける説得行脚の途中だった。そのため会見には地元英国以外に欧米、日本の記者たちも詰めかけた。

 

マイクとスピーカーを通しているのに、長官の声はボソボソして聞き取りにくい。共同研究を呼び掛けた先について、欧州以外に「太平洋の国々も」と言ったように聞こえたので、私は手を挙げて「日本にも声を掛けたのですか?」と質問した。

 

◆反対多数だった共同研究 「日本にも要請」引き出す

 

すると、長官は「どうしてそんな当然のことを聞くの?」と言いたげな表情を浮かべた後、「日本やイスラエルにも既に参加を要請した」とにこやかに答えてくれた。

 

その場には大勢の記者がいたが、ボソボソ声がどこまで伝わったかはわからない。いずれにせよ、世界を騒がせているSDIの共同研究に同盟国の日本が招請されたという事実は大きなニュースに違いない。大急ぎで支局へ戻り、吐く息で指先をハアハアと温めながら、テレックスのキーをたたいたのだった。

 

今なら、スマホでもタブレットでも原稿を瞬時にネット経由で送ることができる。当時はそんな便利なものはない。ファクスも導入前だった。分秒を争う事態なら、国際電話をかけて勧進帳で原稿を吹き込む手もあるが、「費用がかさむ」ということで奨励されていなかった。

 

まずはメモ帳などに走り書きして原稿をまとめ、次に大型タイプライターのようなテレックスにアルファベットキーでローマ字で打ち込んで送信用テープを作成する。

 

出来上がると、専用回線で本社に接続してテープを流す。東京本社には「電信さん」という部局があり、ローマ字がだらだらと並んだ私の原稿が黄色い用紙にプリントされる。外信部の同僚たちがこれを日本語の文字に書き直してくれて、初めて原稿がデスクの手に渡る仕組みだ。冬の英国と東京の時差(9時間)も加わるので、そうした時間も考慮しなければいけない時代だった。

 

結果的に、私が送った記事は「SDIに日欧研究者 米、派遣を非公式要請」という見出しで翌日の朝刊1面5段の特ダネになった。国会開会中でもあったことから、中曽根政権が共同研究への参加要請を受け入れるかどうかをめぐって、政界でけっこうな論議を巻き起こすきっかけにもなったそうだ。

 

北朝鮮や中国の核・ミサイルの脅威を前に、今ではミサイル防衛の必要性と意義を疑う人はほとんどいないだろう。しかし、当時は「SDIなど夢物語で、技術的にも不可能」といった懐疑論や「そんなことをしたらソ連を刺激して、恐怖の均衡が崩壊しかねない」といった反対意見のほうが大勢を占めていた。

 

欧州諸国も初めは共同研究を論じることすら及び腰だった。日本の外務省に至っては、ワインバーガー長官が明言したにもかかわらず、私の記事について「そんな話は初耳だ」と知らん顔を決め込んだのは、今振り返っても残念に思う。

 

英国のサッチャー政権、西独のコール政権に続いて、日本が正式に研究参加を決めたのは、私の記事から2年ほどもたってからだった。

 

◆変わらぬ笑顔と10年目の再会 冷戦克服へ筋貫いた政権

 

その後10年ほどたって、私は念願だったワシントン特派員に任じられた。ある日、若い後輩記者が出張で来局した。どんな企画だったかよく覚えていないが、レーガン政権の元閣僚らにインタビューしたいという話である。たまたま、引退してワシントン近郊で悠々自適の暮らしをしているワインバーガー氏を一緒に訪ねることになった。

 

元長官は78歳になろうとしていたが、同盟国・日本の記者と聞いて、気さくに会ってくれた。私は取材の合間に10年前のロンドンを思い出し、「長官が答えてくれたおかげで特ダネを書くことができました」と話しかけたが、もちろん私のことなど記憶に残っているはずもない。

 

「ハア、そうだったかね?」といった調子だったが、最後に「日本は同盟国で、大切な友人だ。ずっと良い関係でいたいね」と、同じ笑顔で私たちを見送ってくれた。

 

ワインバーガー氏は、タカ派と呼ばれたレーガン政権の中でもソ連、中国に対する強硬派で知られ、SDIを最も熱心に推進した1人だ。その分だけリベラルなハト派の人々から「平和の敵」と嫌われた。だが、身近に垣間見た氏は、常ににこやかで温かい人柄が感じられた。

 

SDI構想がそのまま実現することはついぞなかったものの、同盟国を挙げての壮大な技術競争はソ連のゴルバチョフ書記長を極限まで追い詰めて、冷戦勝利へ導く原動力の一つになった。また、「核ミサイルを無力化する」という画期的発想が現代のミサイル防衛に姿を変えて実を結んだことは言うまでもない。

 

とりわけ日本にとって、1999年から本格化したミサイル防衛の日米共同技術研究は同盟を深化させ、両国の防衛力を共に高めていく戦略的ツールになった。ワインバーガー氏は2006年に世を去ったが、あの時、ロンドンで明らかにされた日本への共同研究参加要請がなかったら、日本のミサイル防衛は果たして実現していただろうか。

 

レーガン政権は一見乱暴なように見えて、冷戦の克服、国際秩序や自由と民主主義の追求といった理念で一本の筋が貫かれていたと思う。

 

その点で「レーガン気取り」でいながら、理念も原則もない没道義的なトランプ政権は、似て非なるものに見えてしかたがない。私はその後、産経新聞に移籍したが、そうした思いはますます強い。

 

時代は変わり、毎日新聞ロンドン支局もはるかに居心地の良いオフィスに移った。原稿を送る手段や技術も一変した。それでも時々、昨日のことのように思い出されるのは、ギッタン、バッタンと大音を立ててテープを吐き出すテレックス台。そして、その前で興奮と寒さと切なさに包まれてキーをたたいていた薄暗い小部屋の情景だ。

 

たかはた・あきお

1949年生まれ 73年毎日新聞社入社 82~87年ロンドン 90~94年ウィーン 94~99年ワシントン特派員 北米総局長 論説副委員長等を経て 2007年退社 07~13年産経新聞論説委員 同副委員長 13年退社 現在 白鷗大学経営学部教授

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