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南方、北千島、中国戦線 愛機はパルモス、ライカ、バルダックス(西井 武好)2005年8月

会報編集子の話によると、クラブ会員の中で、先の太平洋戦争中、従軍記者の経験のある人は小生一人になったという。終戦の日も遠くなりにけりの感がする。

 

あの痛ましい太平洋戦争の従軍記をとの依頼を受けたが、何から書いてよいやら迷った。そこで、とにかく年月を追って書くことにする。

 

●2月上旬マニラに着く

 

昭和18年1月、海軍報道班員(カメラマン)の辞令を受ける。リポーターは海野稔さん(当時同盟通信社の外信部、その後時事通信社の編集局長、取締役など)。同盟通信をはじめ朝日、毎日、読売の各社もそれぞれペアを組み報道班が編成された。

 

横浜から鎌倉丸(1万トン級。当時としては豪華客船)に乗り一路南方の戦線へ。途中、台湾の高雄港に入る直前、米軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けたが、じぐざぐコースで航行、辛うじて避けることができた。

 

南方戦線の海軍基地は、第1南遣艦隊がシンガポール、第2がマカッサル、第3がマニラにそれぞれ艦隊司令部があった。私たちはマニラの第3南遣艦隊(司令長官は太田泰治海軍中将)に配属となる。2月上旬マニラに上陸、初めて外国の土地を踏む。

 

報道各社の陣容を記すと、朝日が羽田豊彦と黒川亮一郎、毎日が小野盛男と岩澤為儀、読売が園田公仁道、同盟が海野稔と小生西井。後で漫画家の近藤日出造、作家の摂津茂和らが参加してきた。

 

マニラに来たものの、取材するものは特別に何もなかった。もっぱら緒戦の戦跡を視察するのが日課だった。使用したカメラは「パルモス」「ライカ」「バルダックス」の3台。まだ同盟通信機が飛行していたので、送稿はそれに託した。

 

ちょうど東条英機首相が南方視察で比島を訪問した。病気療養中だった当時陸軍比島方面司令官の田中静壹中将に代わり、太田中将と会談。その時の2人の写真が同盟の特ダネとして配信された。

 

戦争の大局はアメリカの反撃が熾烈を極める頃だった。ソロモン群島での攻防戦、ガダルカナル島からの撤退、山本五十六海軍大将がブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死したのも同年4月だった。そして私は、約半年の海軍報道隊員の任務を終え、18年7月に内地へ帰還する。

 

●小樽港から択捉島へ

 

昭和19年1月、今度は陸軍報道班員として従軍した。

 

米軍の反撃は相変わらず激しく、日本軍部は南方、北方の両面作戦をとり、陸軍の大部隊を千島列島に展開したわけだ。北方方面軍司令部が択捉島の天寧に置かれ、約2個師団の陸軍部隊が千島列島に展開した。

 

 報道各社の陣容は朝日が西田市一、カメラマンが吉岡専造、毎日が石田某と黒田武士、読売が根津忠介、北海道新聞が記者とカメラマン(氏名は失念)、同盟は小生一人(後に札幌支社の曽我部元斉が合流した。)

 

いよいよ小樽から船で出発となる。港には陸軍の輸送船が2隻停泊していた。1隻は伏見丸という新造船で、軽快でいかにも速力の出そうな船だった。もう1隻は日振丸という伏見丸より船体は大きかったが見るからに老朽船で港に停泊しているときから船体が大きく左舷に傾き、速力も鈍そうな感じだった。

 

報道班員は最初、伏見丸に乗る予定だったが、出発直前になって急きょ日振丸に変更になる。輸送指揮官に交渉したが、「伏見丸は船体が狭い。報道班の皆さんに窮屈な思いをさせたくない」と諭され、仕方なく日振丸で出発することになる。が、これが運命の岐路となる。

 

小樽港を出発した2隻の輸送船は前後を駆逐艦に護衛されながら千島に向かった。このころ北方海域は濃霧の季節でしばらくすると、僚船の姿は全く見えなくなった。やがて船は択捉島の天寧に着く。ところが、先着しているはずの伏見丸の姿がない。不幸にも、敵潜水艦の攻撃を受けたとのことだった。

 

千島でははじめ得撫島に駐屯したが、その後各社まちまちに行動することになり、私は単独で松輪島に配属された。松輪島は周囲20数キロの火山性の小さな島で中央に富士山型の山があり、白い煙が上がっていた。山頂まで登ってみたが、付近に点在する羅処和島、捨子古丹、温祢古丹という島々が眺められた。

 

滞在中の食料は玄米と乾燥野菜ばかり、たんぱく源は何ひとつない。唯一のたんぱく源として海馬の肉をかじったが、堅くて食べられたものではない。口に合わなかった。

 

宿舎は憲兵隊と同居だった。招かれるままに各部隊を訪問して内地の状況などを話すのも日課のひとつだった。私はもっぱら兵隊さんを写し、密着写真(ベタ焼き)をつくり進呈して喜ばれた。写真作成の薬品類は持参していた。

 

滞在中、得撫島駐屯の佐野師団長が前線視察のため部下数人と松輪島に来た。ところが、その日の夜、はるか太平洋上のかなたからものすごい大砲の音が聞こえてきた。アメリカ軍艦の艦砲射撃である。南方戦線に従軍中、日本海軍の艦砲射撃は経験したことはあるが、アメリカ海軍のは初めてだ。とにかく激しい。日本海軍の射撃は1、2秒間隔で発射されるが、アメリカはそうでない。まるで機関銃のようで1秒間に5、6発発射してくる。もちろん1隻だけでなく、2、3隻の軍艦からだったかもしれないが…。

 

“上陸してくるかもしれない”とみんな完全武装して山の中腹にあった壕の中で射撃を避けた。敵の上陸はなく、夜が明けると島の所々に砲弾の破片(鋭角的で直径10センチほどの鉄くず)が散乱していた。幸い、宿舎にはなんの被害もなかった。

 

やがて19年の夏が過ぎ、北千島の空に白いものが舞い始めるころ、帰還することになる。大型輸送船はすでになく、北国特有のサケ・マス漁のわずか数トンの漁船に乗り、アメリカ海軍の潜水艦の攻撃を避けながら、島伝いに根室まで帰ってきた。

 

●東城東堂子胡同19号

 

北千島から命からがら帰還してきたのに、数日も経ずして、今度は北京に行ってくれと社命が出た。

 

当時、同盟の華北総局(北京)に私の先輩であった寺尾順佑さんが写真部長として赴任していた。寺尾さんが名指しで私を呼び寄せたようだ。

 

そのころの東京は毎日のようにアメリカの長距離爆撃機B29が飛来し、空襲のサイレンが鳴っていた。女房、子どもは郷里の高知県へ疎開中だし、どこで死ぬのも同じ。“人間到るところ青山あり”と決心し、単身行くことにした。

 

下関から釜山へ。列車で朝鮮半島を縦断、北京に着いたのは昭和20年1月の寒い朝だった。北京東城東堂子胡同19号の同盟通信華北総局は職場も住居も同じ敷地内にあった。

 

在勤中は精力的に近郊へ取材に行った。太原(山西省)へ行く途中、列車が八路軍(現在の中国軍の前身)に襲撃されるかもしれないというので緊張したものだ。

 

そして5月、おそらく日本軍の中国での最後の作戦行動だったと思われる「老河口作戦」(江南省鄭州市の西)に従軍した。

 

北京から列車で鄭州へ、途中、黄河の鉄橋を渡る。ちょうど夕刻近くで、満々と水をたたえた河面に夕日が美しく輝いた景色が印象に残っている。鄭州で降り、軍用トラックで最前線へ。そのとき電通時代の先輩であった山本清さん(北京の東亜新報のカメラマン。同社の社長は当時の日本新聞界の長老格であった徳光衣城さん)と出会う奇遇もあった

 

戦場に出たものの日本軍の行動は制約されていた。当時の中国での制空権は完全に在華米空軍に握られ、昼間の行軍は全くできなかった。夜間行軍の連続でトラックで移動中、突然、米軍機の機銃掃射を受けた。そのたびにトラックから飛び降り、麦畑へ身を潜める。全く生きた心地はなかった。

 

このような状況の中でも作戦目的の老河口空軍基地奪取は達成できた。日本陸軍はまだまだ健在なりと思ったが、さてさて戦争の大局はさにあらず、本国では沖縄決戦が熾烈を極め、やがて、あの恐ろしい原爆が広島、長崎へと投下され、そしてポツダム宣言受諾となり日本の敗戦となる。

 

老河口作戦を終え、私が北京へ帰ってきたのは20年6月中旬。終戦の“玉音放送”は華北総局で聞いた。

 

同盟の通信施設は接収され、社員は分散して収容された。北京郊外の西郊収容所には大勢の日本人が収容されていた。ここで、同盟は「かわら版」を出した。短波無線機でニュースを聞き、編集してガリ版刷りして所内に配布、みんなから喜ばれた。そして20年12月、内地送還となる。

 

以上が私の南方、北方、中国と三度にわたる従軍記である。読み返してみるといかにもロマンチックな感じもあるが、現実はそんな生易しいものではない。幾たびか死線を越え、よくぞここまで生き永らえたものだと思う。

 

拙文を長々と書いたが、“歴史の証言”のひとこまにでもなれば、これに過ぎることはない。

 

(にしい・たけよし 1915(大正4)年生まれ 32(昭和7)年電通入社 その後同盟 共同通信で編集局写真部に所属 59年(昭和34)宮内庁嘱託となり皇太子(現天皇)ご成婚の写真撮影を担当した のちにKK共同取締役を務める 76年(昭和51)退任 元同盟通信写真部)

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