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対人地雷爆発の現場に遭遇 イラン・イラク戦争の最前線で(保田 龍夫)2016年6月

それまでの人生で「地雷」というものを意識することはなかったが、1983年8月11日を境に一変した。共同通信のテヘラン支局長だった私はこの日午後2時すぎ、イランの敵国イラク領を見下ろせる中西部メヘラン地区の高地を登っていた。

 

開戦から3年。戦況が大きく動いていたわけではないが、メヘラン地区はイラク首都のバグダッドの東約160㌔に位置する国境の山地で、主戦場の1つだった。ホメイニ体制下で、外国特派員を管理するイスラム指導省(情報省)は「対イラク戦争の前線取材をしようともしない外国特派員に、滞在ビザの延長はできない」との姿勢で当時、7社各1人が常駐していた日本人記者も2回に1回くらいは、この前線視察ツアーに参加していた。

 

「ドーン」。上の方でずしんと腹にこたえるごう音が響いた。一瞬、イラク軍から砲撃を食らったかと思い身を伏せた。だが、どうも様子が違う。内外の報道陣約20人の前線視察ツアーはこの時、先頭から私のいた最後尾まで約100㍍の長さに延びていた。先頭で何かが爆発したようだ。

 

直前に、引率していた情報省の若い職員が慌てた様子で、先頭を急ぐテレビクルーを速足で追いかけるのを目撃した。彼は坂道の中央に張られた白いテープからそれて、曲がり角で近道を取ったように見えた。

 

この後、私の記憶はしばらく飛ぶ。気づいたら、シャツが血でべっとり染まったロイター通信のインド人記者の両手両足を4人で持って、運び下ろしていた。朝日新聞の百瀬和元支局長が左肩を負傷したらしく、顔をしかめて、うずくまっている姿も見かけた。

 

この白いテープは2日前にイラク軍から奪還した高地に敷設されていた地雷をイラン軍が除去し、そこだけは安全に歩ける細い通路を指し示したものだった。太陽が少しでも高いうちに、西方のイラク領を撮影したいと焦るテレビクルーを追いかけた情報省職員が危険地帯に入り込み、対人地雷を踏んだもようだ。

 

地雷爆発による死者は情報省職員と、ロイター通信ニューデリー支局のナジムル・ハッサン記者の2人。負傷者は百瀬氏やANSA通信(イタリア)支局長ら3人に上った。

 

ハッサン記者は、英国人のテヘラン支局長がバカンス休暇で出国したカバーのため、3日前にイランに入国したばかりだった。この日、軍用機で経由地に飛ぶ途中、隣席の彼と会話した。彼は5年前のイスラム革命時にイランの聖地コム近くで交通事故死した共同の竹沢護・元ニューデリー支局長を「いい男だった」としのんでいた。ニューデリーからのイラン取材は通信社に2つの不幸をもたらした。

 

◆非人道的な対人地雷

 

どうして、この不幸な事態が起きたのか。直接の原因は、兵役体験を欠いていたというこの情報省職員の無謀な行為だが、遠因は取材現場への到着がいつになく遅れ、逆光を嫌うテレビクルーが焦ったことだ。イランには正規軍と革命防衛隊という2つの軍事組織が今も並立している。この日、報道陣をどの高地へ案内すべきかで、ガイド役の両組織責任者が口論し、目的地がなかなか定まらなかった。前線視察ツアーは既に4、5回目だった私は「今日は案内が不安定で危険度が高い」と判断し、意識的に最後尾を歩いていた。

 

爆発した対人地雷はどういう構造だったのか。日本大使館の藤井建吉防衛駐在官は「地表のセンサーに触れると、地中から地表に跳ね上がって高さ1㍍くらいで爆発し、広範囲に鉄片や鉄球を飛散させるもの」と推定した。地雷は地下で爆発するものと思い込んでいた私は、その恐ろしさに衝撃を受けた。「跳躍地雷」(ポンピング地雷)と言うらしい。そういう構造だからこそ、多数の死傷者が出るのだ。

 

日本に帰国後、カンボジア内戦を取材し、ピュリツァー賞を受けたニューヨーク・タイムズ紙記者の実話に基づく映画「キリング・フィールド」(84年)を見た。後半で主人公のカンボジア人助手に連れられてポル・ポト派から逃れようとした少年が、ジャングルで地雷のセンサーに触れて、恐怖の表情を浮かべる。結局、爆死するのだが、そのシーンが脳裏から離れなかった。

 

英国のダイアナ皇太子妃が対人地雷の廃絶運動に身をささげ、日本では97年に外相に就任した小渕恵三氏が外務省の強い反対を押し切って対人地雷全面禁止条約を締結したことは特筆される。

 

◆石油リグ炎上の特ダネ写真を入手

 

83年3月初めにペルシャ湾にあるイランのノールーズ海中油田をイラク軍が空爆し、油井(リグ)が炎上。大量の原油がペルシャ湾に流出し、湾岸諸国を巻き込む大騒ぎになった。

 

しばらくして、イラン人のあるカメラマンから生々しい現場のカラー写真を入手した。国内では発表不可の写真という。小躍りしたものの、カラー写真の電送機など夢の時代で、共同本社に送るすべがない。とりあえず最も近いウィーン支局に届けて、あとは任せようと、国営イラン航空のパイロットにつてを頼って託すことにした。

 

ところがウィーンの榎彰支局長から「空港に受け取りに行ったが届いていない」と電話がかかってきた。手の打ちようもなく、じりじり待つこと数日。本社の写真部から「届いた!」との電話がかかってきた。

 

ウィーンに送りだしたはずの写真がどうやって本社に届いたのか今でも不思議だが、どうやらこういうことらしい。イラン航空のパイロットたちが知人から託された荷物を受け取るメヘラバード空港のボックスで、東京行きの便のパイロット(この人にはつてがなかった)が問題の封筒を見つけ、自分が直接届けてやろうと気を利かせて持ち去った! イラン人にはこのように、お節介で親切な人が結構多いのだ。この写真は4月18日付の共同の加盟紙を飾った。

 

◆「日本人は原爆投下を忘れるのか」

 

イランには多数派のペルシャ人(61%)のほかにクルド人など少数民族も多い。82年秋にテヘランの街中を歩いていたら、アルメニア人のキリスト教教会に多数の信徒が集まっているのが目に留まった。何事かと若者の信徒に尋ねたら「オスマン帝国によるアルメニア人虐殺に抗議し、犠牲者を悼む集いだ」と言う。

 

「アルメニア人虐殺」というのは、第1次世界大戦中の1916年にオスマン帝国(トルコの前身)内で少数民族アルメニア人が強制移住などにより多数殺害されたとされる事件。アルメニア人がこの事件を「ジェノサイド」(民族大量虐殺)として弾劾している歴史的重みをよく知らなかった私は、思わず若者に「そんな昔の事件をいまだに問題にするのか」と問い返してしまった。

 

すると彼は「では、日本人はアメリカによる原爆投下の惨禍を忘れ去ることができるのか?」と静かに反論してきた。その時、私の感じた「居心地の悪さ」を今でも思い出す。広島、長崎の市民20数万人を無差別に殺害した原爆投下。それを行ったアメリカを憎みもせずに友好関係を続けているらしい日本という国が、このアルメニア人若者に不可思議な存在に映るのも無理はないなと思った。

 

「アルメニア人虐殺」は中東地域に今も残るトゲの1本である。アルメニア側は事件で150万人が犠牲になったと主張、トルコ政府は「民族衝突の結果」だとして、意図的な虐殺を否定している。欧州諸国でもスイス、フランスなどが「ジェノサイド」と認定し、それを否定する発言を刑法で禁じている。

 

やすだ・たつお
1943年生まれ 67年共同通信社入社 テヘラン支局長 ワシントン支局次長 ニュースセンター副センター長など 2011年から15年まで(公財)新聞通信調査会「メディア展望」編集長

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