ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

暴力団が毎日新聞社を襲撃 政治家との〝くされ縁〟批判に腹いせ(新実 慎八)2016年5月

いまから半世紀余りも昔のことで恐縮だが、1960(昭和35)年は国内で次々に大きな出来事が発生した激動の1年だった。6月、空前の盛り上がりを見せた「安保闘争」。10月には演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が右翼少年に刺殺された。二つの事件の間には、岸信介首相と社会党顧問の河上丈太郎衆院議員が、それぞれ暴漢に襲われて負傷。さらに訪日が決まっていたアイゼンハワー米大統領に対し、岸政権は治安不安を理由に訪日中止を要請するという失態を演じた。

 

そしてもう一つ、これらの事件に先立って4月2日未明に発生した暴力団の毎日新聞社襲撃事件――言論の自由に暴力団が真っ向から挑戦した初めての出来事である。

 

◆輪転機に砂まき散らす

 

「毎日新聞社襲撃」は、こんな状況だった――同日午前4時15分。当時、有楽町のそごう(現在はビックカメラ)前にあった毎日新聞社に車で乗りつけた暴力団幹部ら二十数人が、いきなり印刷工場に乱入し、朝刊の最終版を印刷中の輪転機3台に砂袋を投げつけた。輪転機は直ちにストップ。暴徒の一部は、さらに発送場に駆け上がり、発煙筒を焚き、消火弾を発射、新聞の梱包を手あたり次第投げ飛ばし、新聞仕分け台をひっくり返すなど、暴れまわって発送場をめちゃめちゃにした。

 

発送事務室、宿直室、休憩室のガラス窓も破壊して外へ飛び出し、待たせていた車に飛び乗って逃走した。車に乗り遅れた3人を駆けつけた丸の内署員が逮捕した。

 

暴力団組員の組織的犯行であることはすぐわかった。彼らは半月前の3月14日夕刊社会面に私が書いた記事に不満を持って因縁をつけ、記事取り消しを要求して組の幹部が来社、社会部と折衝が続いていた。しかし毎日新聞社が断固拒否したため、報復に転じ本社襲撃に出たものだった。問題の記事は「親分夫人の葬儀に、大勢の政治家が花輪を贈った」事実を批判的に報道し、政治家の実名を挙げて暴力団との〝くされ縁〟を暴いたものである。「政治結社」を名乗っていたが、実態は暴力団であることをはっきり書き込んだ。

 

警視庁の説明では、この暴力団は銀座に興行会社の看板を出していたが、実際にはばくち、債権取り立て、パチンコ景品買い、用心棒などでも稼ぎ、暴力団と変わりないという。警視庁捜査4課によると、この前年の構成員の逮捕者は294人に上った。

 

このころ毎日新聞は紙面で暴力団追放のキャンペーンを展開していた。私が入社した1956年には長期連載の「暴力新地図」で暴力団の実態を暴き、翌57年に日本新聞協会が設定した「日本新聞協会賞」の第1号を受賞した。社会部の意気は大いに上がり、暴力団追放の紙面づくりに情熱を注いでいた。そんな雰囲気の中で、私は暴力団関係の取材に力を入れていた。

 

1960年3月に入って、暴力団担当のある刑事が巻紙の葬儀通知回状―いわば挨拶状を見せてくれた。長さ8・2メートルの立派な和紙の挨拶状には、会長夫人の死去に伴う葬儀の日取りから式次第、さらに葬儀委員長に当時の都内の大親分の名前などが詳しく書かれていた。

 

◆親分夫人葬儀に花輪ずらり

 

その中で私が注目したのは、元警視総監田中栄一氏、元文相松永東氏ら衆院議員13人、参院議員4人をはじめ東京都知事、都議会議員、近県の県議会議員など50人近い政治家が、葬儀に参列あるいは花輪を贈ることが書き込まれていたことである。事実ならば政治家の名前の入った数十本の花輪が浅草・長敬寺の周辺に盛大に並ぶことになる、と私は判断した。この事実を葬儀当日に確かめて、政治家との癒着ぶりを報道しようと考えた。

 

葬儀当日の3月14日、浅草の式場周囲300メートルほどの地域には大きな花輪と黒い喪服の若者が並んでいた。私は通行人を装って政治家名を確認して本社に連絡。記事は夕刊最終版に間に合った。見出しは「政治家の花輪ずらり」「親分夫人の葬式」「 〝くされ縁〟に批判」だった。

 

記事掲載から4日後の同18日、毎日新聞社に長い巻紙の抗議文が届いた。そこで話を聞くため警視庁クラブのキャップが先方と接触し、同日午後やって来た幹部らと毎日側が、日比谷公園内の松本楼で会談した。執筆者の私は、警察も加わって相談した結果、直接攻撃目標になる恐れがあって危険と判断し、一切接触しないこととした。会談にも出ず、筆者名も明らかにしないことにした。

 

◆記事取り消しを断固拒否

 

松本楼に来た幹部ら6人は、ダブルの黒い背広にサングラスの男や、こぶしでテーブルをたたいて威圧する若者などなかなかのもので「掲載した記事の大きさで訂正を出せ」「できないならこっちにも覚悟がある」「今日は帝国ホテル組(おとなしい連中の意味らしい)ばかり連れてきたんだ」と激しく迫ってきたという。

 

これに対し毎日側は「政治結社と届け出ていても実態は暴力団であり、警察もそう見ている」「公職の地位にある政治家が、暴力団の身内の葬儀に公職名で花輪を贈るのは不見識」と説明し、記事の取り消しには応じなかった。会談は1時間にわたったが相手は納得せず、その後も再三記事の取り消しを申し入れてきた。

 

襲撃を受けて、警視庁から特に個人の身辺警護の申し出があり、毎日新聞社の社長、編集局長、社会部長、警視庁クラブキャップ、それに執筆者の私の5人の身辺警護をお願いすることになった。警護は「刑事の内張り」と「パトカーを配置した自宅周辺の警戒」であった。「内張り」は拳銃を持った刑事が対象者の自宅内で寝ずの張り込みをし、パトカーによる警戒は自宅周辺に2台が集結し、無線で連絡しあうものものしさであった。

 

襲撃した犯人を全員逮捕するまで1週間ほど警戒が続いたが、自宅のワンルームのアパートで内張りの刑事が寝ずの番というのは、なんとも落ち着かない。女房も、生まれて半年の長男とともに実家に帰した。当時警視庁クラブの私は、朝起きれば警視庁へ飛んでいくし、夜は刑事宅の夜回りで帰宅は深夜の2時~3時、自宅にはわずかな時間、寝に帰るだけという生活であった。

 

警視庁は丸の内署に捜査本部を置き、数日後までに幹部ら25人全員を威力業務妨害、建造物侵入、暴力行為処罰法違反などの容疑で逮捕、起訴した。また東京地裁は10月31日の判決で、事件に関係した全被告を有罪とした。

 

この事件のあと各新聞とも意欲的に暴力団追放の記事を特集した。毎日新聞は根深い暴力の実態にメスを入れた紙面を特集した。今、当時の紙面を反省しても遅すぎるが、毎日として事件後もっと暴力団と対決する特集、特に葬儀の回状に名前が挙がっていた政治家全員に、暴力団との関係を聞きただしておく必要があったと思う。回状にまで名前が載る関係について「公人」たる政治家の責任として、社会に説明する必要がある。

 

◆生き続ける〝やくざ世界〟

 

事件後50年余の今、政治家と暴力団との関係がいまだに残っているのは、これまでの新聞の取り組み、監視が不十分だったということでもある。特に政治家と右翼暴力団の結び付きの実態を明らかにできなかったこと、政治家が右翼暴力団をいかに利用し、暴力団も政治家と結んでその勢力をいかに維持し、伸張させていたか、ここまで踏み込めなかった不明を恥じる次第である。

 

70年前、敗戦日本に進駐してきた米軍が、日本の社会に巣食っている「親分・子分制度」に特段の関心を持ち、「やくざ組織」の除去に取り組んだとされている(『日本占領史1945~1952』福永文夫著、中公新書)。GHQ内で検討し、日本社会の暗部に斬り込む声明を出したが、「キャンペーン」はそれ以上進まなかったという。敗戦3年目、効果の上がりにくい〝やくざの世界〟に取り組むより、ほかに優先して実施すべきGHQの仕事は多いという判断があったようだ。いずれにしても〝やくざの世界〟は温存され、いまだに生き続けている。

 

にいのみ・しんぱち
1932年生まれ 56年毎日新聞社入社 編集局次長 総務局長 広告局長 取締役中部本社代表 常務取締役管理部門統括 広告担当など歴任 退任後はパレスサイド・ビルディング(現毎日ビルディング)代表取締役 公益財団法人海外日系人協会常務理事など 現在 一般社団法人海外日系新聞放送協会理事長

ページのTOPへ