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汚染地域 30年後の現場「チェルノブイリは特殊じゃない」(大野 孝志)2016年4月

「来年で30年。福島の事故から5年。現地取材できるよう、会社を説得しよう」。昨夏、喫煙室でカメラマンと交わした会話が始まりだ。

 

筆者のいる原発取材班は、福島第一原発で起きていることや再稼働の動きに目を光らせながら、海や田畑の汚染状況を調べ、仮設住宅を回り、避難した人たちの苦悩を肌で感じている。節目にだけ騒ぐ「記念日報道」は嫌だが、この機会に、どうしても現場を歩きたかった。

 

とはいえ、ウクライナの人脈はゼロ。幸い、東京湾や福島沖の汚染取材を一緒にやってきた獨協医科大学の木村真三准教授は、チェルノブイリの汚染と被曝を調べ続けてきた専門家。誰に何を取材したいか。打ち合わせを重ねたうえで、木村准教授と旧知の現地在住邦人を通じて、取材の約束を取り付けた。

 

こちらのロシア語能力もゼロ。現地では、この在住邦人が通訳も務めてくれたが、熱く語る住民との通訳を介したやりとりは、1人の取材に3時間以上かかるほどだった。

 

話を聴いていくと、安全なはずの原発が事故を起こし、住民は状況を知らされずに「3日だけ」と言われて避難していた。暮らしが根こそぎ奪われた街は廃虚となり、廃炉への道のりは遠い。健康を害しても、事故との因果関係は不明と言われる。事故の後も、国内で原発が動き続けている―。

 

30年前、チェルノブイリで起きたことが、日本で繰り返されているのだと実感した。

 

主に取材したナロジチ地区では、旧ソ連の崩壊で、汚染地域からの移住が止まった。今も1万人が残り、被曝と隣り合わせの毎日だ。福島では除染して、住民を帰還させるのが施策の中心。山は除染されず、山菜やキノコは汚染が続く。今後も、被曝の危険がすぐ近くにある。

 

日本ではウクライナのように、内戦が明日の生活を脅かすわけではない。だが、人々の記憶が上書きされて原発事故が忘れられても、「日本は違うよ」と言えるだろうか。でこぼこ道を行く車の揺れと、取材先で出されたウオツカで酔った頭の中を、同じ言葉がぐるぐる回った。

 

「チェルノブイリは、特殊じゃない」

 

(おおの・たかし 1993年入社)

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