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モスクワ支局 事故から半月 怖いことを知らされない怖さ(三瓶 良一)2016年4月

あの日、1986年4月28日の午後、ストックホルム発で「ソ連で放射能漏れか」との情報が流れた。ソ連と北欧の間に位置するリトアニア共和国のイグナリナ原発かと思ったところ、沈黙を続けていたソ連当局は、その夜の国営タス通信で原発事故を初めて報じた。場所はイグナリナと逆方向のウクライナ共和国のチェルノブイリ、発生はなんと2日前の26日だった。

 

1年前にゴルバチョフ政権が「グラスノスチ」(情報公開)を掲げて登場した。しかし、事故直後の政府発表はほんのわずかで、全体像はつかめなかった。インターネットはまだない。電話事情は極端に悪く、テレビはソ連のチャンネルだけ。西側で大騒ぎになっていることはソ連市民に伝わらなかった。

 

放射能の危険がある中で、ソ連各地と同様にキエフでも5月1日に何事もないかのようにメーデー行進が行われた。

 

日本の親戚から妻に「子どもたちを外に出すな」と切羽詰まった国際電話がかかり、家族は日本での大騒ぎの一端にようやく触れた。邦人の多くが同じ経験をした。

 

朝の日課としてウクライナ方面からの列車が到着するモスクワのキエフ駅通いが始まった(ターミナル駅は行き先が駅名となっている)。日本人留学生も貴重な情報源になった。

 

1週間ほどして、せきを切ったように原発報道が始まった。グラスノスチはその後、さまざまな分野で全面展開していった。

 

外国メディアの自由な取材を制限していたソ連当局も現地取材を組織した。ただし、1国1社。日本はくじ引きで当たった共同通信の記者が参加した。くじ引きを辞退する社も出た。

 

在留邦人にとってソ連生活の難点の1つは冬場の緑野菜不足。このため夫人たちは5月にモスクワ大学近くの丘で野草を摘み取り、冬のために備蓄するのが恒例だった。しかし、この年から取りやめになった。日本大使館からはフィンランドの牛乳が配給された。予定されていた歌舞伎ソ連公演は延期となり、在留邦人を失望させた(翌年に実現)。

 

事故発生から半月で身にしみて感じたことは、放射能の怖さは知っているが、現状については知らされなかったことの怖さだった。

 

(みかめ・りょういち 1970年入社)

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