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科学記者 原子力ムラの暴走許したメディア リスクの正体見極める責任が(渥美 好司)2016年4月

この一文に付けた写真の話から始めたい。

 

撮影日は事故から4年たった1990年6月29日。場所は事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉(ウクライナ)の中心部。水蒸気爆発によって炉心も建物も崩壊した。中心部とは炉心の下の階層をいう。

 

当時、事故炉を覆うコンクリートの巨大な箱「石棺」内の深くまで取材できたメディアはなかった。1週間ほど原発幹部と交渉し、私と写真部の花井尊記者に許可が下りた。石棺に入る直前、「被曝しますが、1ミリシーベルトか5ミリか、どちらを選びますか」と聞かれ、返答に詰まった。滞在時間に差はあるが、どちらも中心部を見られると知り、1ミリを選んだ。東京電力福島第一原発の事故後、被曝は現実的なものになったが、当時は1ミリであっても覚悟が必要だった。

 

石棺内は1000を超す部屋や区画があり、薄暗い通路が迷路のように続く。汚染された壁や手すりは触れない。鉄製階段の上り下りで足を踏み外しそうになりながら、オレンジ色のライトに照らされた空間にたどりつく。肩から下げた放射線測定器の針は振り切れた。壁の向こうは溶け落ちた190トンの核燃料。換気しても崩壊熱で200度ある。案内役の原発職員は「立ち止まらないで」と繰り返したが、私は「墓守」役の作業員に話しかけ、花井記者はシャッターを押し続けた。滞在時間は25分。被曝は1ミリ内だった。

 

事故当時、旧ソ連では経済促進計画が進行中。原発部門は稼働率を上げることに懸命で安全は二の次だった。福島事故の背景にも経済優先の社会状況がある。電力会社はコストがかかる過酷事故対策をせず、政府は原発推進の妨げになる安全審査体制の強化に後ろ向きだった。

 

原子力ムラの暴走を許してきたメディアの責任は大きい。石棺取材で被曝の恐怖を痛感しながら、その後の報道に生かし切れなかった自分も含め、科学記者のムラへの警戒心は弱かった。

 

科学記者の取材相手は経済産業省、文部科学省、原子力規制委員会、日本原子力研究開発機構、大学・電力会社など推進側が多い。反原発派研究者への取材頻度は今でも少ない。事故や安全解析に関わる生データを推進側のように入手できないから、主張の裏付けが弱いと感じてしまう。

 

しかし、状況は変わりつつある。福島事故で情報隠しが厳しく指弾され、政府・電力は対応を迫られた。再稼働論議の主舞台である規制委員会の審査会合は、インターネットで生中継されている。ほかの原発関連審議会も傍聴しやすくなり、ネットで議事録と提出資料を見ることができる。福島の被災者、原発立地自治体住民らが国・電力を相手に起こした裁判で、反原発側も部外秘データを入手する機会が増えた。

 

反原発を貫いてきた京大原子炉実験所助教の今中哲二さんは、3月末で定年となった。3・11直後から福島県飯舘村で汚染調査を続け、20年以上前からチェルノブイリを何度も訪れて実態を論文にしてきた。自著の序文でチェルノブイリ周辺の数百の村が消滅したことに触れ、「専門家が測ることができないところにもっと肝心なことがあるような気がしている」と書く。

 

それはジャーナリストの領域でもある。原発リスクは科学の論理だけで追い切れない。私は東日本大震災の後、東京本社、福島総局を行き来し、今は世界最大の原発拠点である柏崎刈羽原発(新潟県)をカバーする柏崎支局にいる。原発と自治体の日常を丹念に取材し、科学視点だけでは見えてこないリスクの正体を見極めたいと思う。

 

(あつみ・こうじ 1978年入社 今年2月から現職)

 

*写真は日本記者クラブ会報4月号で見ることができます。

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