ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

崩壊前後のソ連からイスラエルにユダヤ人が大移動(原田 健男)2016年4月

――2つの国が、得たもの・失ったもの――

シリア等の国々から多くの難民が押し寄せ、ヨーロッパはこれにどう対応するか、EUの結束を揺るがす大問題に発展している。今から四半世紀前、1991年のソ連崩壊前後にも似たような現象があった。社会主義計画経済が行き詰まり、国が混乱すると、人々は不満のはけ口をユダヤ人に向け、迫害を恐れたユダヤ人たちがソ連を後にした。

 

私はソ連崩壊前年の90年春、TBS系列のJNNカイロ支局での3年間の勤務を終えた後、これを取材すべくモスクワに向かった。

 

◆オランダ大使館前に長蛇の列

 

ソ連の首都モスクワは4月と言ってもまだまだ寒い。革ジャンパーにマフラーをしても早朝の風は冷たく感じる。そのモスクワのオランダ大使館前には毎日早朝から数百人の人々が集まり、大使館の門が開くのを待っていた。彼らは当時のソ連国内に住むユダヤ人たちだが、ソ連とイスラエルの間には国交がないためオランダ大使館内にイスラエルの利益代表部が間借りし、イスラエルのビザを発行しているのである。

 

並んでいる人々にインタビューしたが、このうちある男性は「われわれはやはりユダヤ人なのでイスラエルに行きたい」と言い、また別の若者は「歴史上の祖国に行きたい。この国にいたくない」と吐き捨てるように言った。

 

このビザを求めるユダヤ人たちの中に49歳のタクシー運転手ヤコブ・メリマンさんもいた。メリマンさんの妻のニーナさんはユダヤ系ではないロシア人。ニーナさんは当初イスラエルへの移住に反対したが、ユダヤ系のメリマンさんの決意は変わらなかった。ついにメリマンさん一族20人は、夜11時にモスクワのキエフ駅を出発する列車に乗り込んで、ハンガリーのブダペストに向け出発した。

 

◆生活レベル低下が迫害の動機に

 

当時のソ連では、ゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進め、自由化・民主化の流れが進んでいた。モスクワ市内ではアメリカのマクドナルドハンバーガーがソ連1号店を出し、市民は珍しさからハンバーガーを買うのに長い列をなし、数時間待っても平気な様子だった。これまた最近店を出したアメリカの化粧品チェーンには女性たちが押し寄せ、入場制限をしていた。

 

しかし、外貨ショップには物が豊富にある一方で、市民の台所である市場では、肉をはじめとする食料品の品不足が続いていた。人々は自由化・民主化は歓迎しているようだったが、食料品等が不足していることにはいら立っていた。

 

なぜ改革が進行していたソ連でユダヤ人迫害が復活したのか。もともと革命前のロシアでも、ユダヤ人迫害はたびたび起きている。

 

ミュージカルで映画にもなった「屋根の上のバイオリン弾き」は、19世紀末のロシア帝政下で、現在はウクライナの村に住むユダヤ人一家の物語だ。ロシア帝国はユダヤ人をこの地域に定住させ、移動を禁止するなどの政策をとってきた。多くのユダヤ人がロシア帝国に不満を持ち、若いユダヤ人たちがロシア革命に参加したのも事実だ。

 

だいたい『資本論』を書いたマルクスはユダヤ人だし、革命当初のレーニンの内閣のメンバーは半分以上がユダヤ系だったといわれている。そして共産主義国家の誕生で、ソ連では宗教活動が制限された。

 

ところがソ連の政策が行き詰まると、人々は再びロシア正教に救いを求めたが、一方で反ユダヤ主義も頭をもたげ始めた。人々は経済の不満を「ユダヤ人が作った共産主義」のせいだと噂し、右翼団体等がユダヤ人襲撃さえ起こすようになった。

 

こうしてユダヤ人たちのソ連脱出が始まったのである。

 

◆右傾化推し進めた移民たち

 

さて先に記したヤコブ・メリマンさん一族は、ハンガリーのブダペストに列車で到着。ブダペストからは空路でイスラエルに到着した。メリマンさんらは空港でイスラエル政府から当面必要なお金を受け取り、用意された宿に向かった。

 

取材した様子は「ユダヤ人大脱出。崩壊前のソ連から中東へ 20世紀の民族大移動」と題してTBSの報道特集で1時間番組として放送した。

 

その後2003年、イラク戦争の始まりで再びイスラエルを訪れた。メリマンさんのその後が気にかかったが、すでに連絡は取れなくなっていた。しかし、首都エルサレムや商都テルアビブにはロシア語の看板が目立ち、滞在したホテルのメードはロシアから移住してきたユダヤ人だった。

 

イスラエルの人口は現在840万人に増えているが、そのうちロシアからの移民は120万人にも達し、人口の15%を占めている。ただ移民にとって良いことばかりではない。かつて国境を越えて毎日イスラエル側に働きに来ていたパレスチナ人が抵抗運動で来なくなり、この不足した労働力をロシア系移民が埋めた。ロシアでは弁護士や教師をしていたという人たちが、イスラエルではメードや建設労働者など肉体労働に従事している例もあった。

 

またロシアからの移民はヨルダン川西岸などの占領地内にある入植地に入ることも少なくなかった。当然彼らは占領地のパレスチナ返還には反対する。移民は「イスラエル我が家」という右派政党も立ち上げ、一時はイスラエル国会の120議席のうち11議席を占め、連立内閣に参加して党首は外相を務めたほどだ。

 

◆科学者輩出、経済活性化にも貢献

 

さて、こうしてイスラエルに来たユダヤ人移民は120万人に及ぶが、今シリアなど中東・アフリカ地域からヨーロッパに向かう移民は、昨年だけで100万人に達したそうだ。ユダヤ人移民の場合は実は、国交のないソ連とイスラエルの間で密約が交わされ、移住はスムーズだった。しかし今、大量の難民の到来にヨーロッパは混乱し、移民排斥を訴える排外主義が力を増してきている。

 

ヨーロッパでは、戦前疲弊したドイツでヒトラーが誕生した例がある。今また中国など新興国の勃興で先進国では経済力が少しずつ弱まり、再び排外主義が力を増しているようだ。ヨーロッパだけでなくアメリカ合衆国でも、経済と不法移民問題が大統領選の争点の1つになっている。

 

話は再びユダヤ人の移住に戻る。イスラエルでは最近、長年の戦争で培った軍事技術を核にハイテク産業が国の経済立て直しに一役買っているそうだが、これを旧ソ連から移住してきた多くの科学者・技術者らが中心になって担っているという報告がある。そういえば、モスクワでイスラエルへのビザを求めて並んでいた人の中に、31歳の物理学者もいた。彼もハイテク産業に従事しているのかもしれない。

 

日本は難民認定や外国人の移民に厳しい制限をかけている。イスラエルへの移民が経済再建に貢献している姿は、今後の日本の移民政策の在り方に示唆を与えるものだろう。

 

はらだ・たけお
1952年生まれ 75年山陽放送(岡山市)入社 JNNカイロ支局長 社会担当「いじめ問題取材プロジェクトチーム」キャップ 政治・経済担当デスクなど ニューヨーク日本協会ジャーナリスト日米交換事業1期生 香川大学非常勤講師 著書に『聖戦布告 イスラムそして宗教』『いじめがあったら、こうしよう』など

ページのTOPへ