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男女雇用均等、共同参画 「女性」を書き続けた記者生活(鹿嶋 敬)2015年12月

◆「雇用平等法を阻止しませんか」

 

「鹿嶋さん。雇用平等法(男女雇用機会均等法=以下、均等法と表記=の制定前はこう呼ぶのが一般的だった)は日本を危うくする。成立を阻止しませんか。そういう趣旨の記事を書いていただけるなら、省内での議論や新たな情報を逐一お知らせします」

 

そう訴えかける目は真剣そのものだった。1983年のある日、均等法が制定される2年前の話である。場所は東京駅八重洲口側の喫茶店。お相手は旧労働省のキャリア組Aさん(男性)。労働省は82年7月に、均等法の制定に向けて男女平等法制化準備室を設置する。実行部隊は各局えりすぐりの優秀なスタッフで構成され、Aさんもその1人だった。

 

均等法を作る準備室にAさんのような人がいたのでは、その2カ月後、婦人少年局長に就任した赤松良子さんもたまったものではあるまい。だが、当時はそのような時代だった。

 

取材で会う企業の人事担当者や役員らは、均等法の制定は革命だと一様に不安を隠さなかった。「企業は女性が一定年齢で辞めることを前提に制度ができている。辞めなくなったら海外の企業との競争力を失いかねない」と言う人までいた。

 

84年には総合誌に「男女雇用平等法は文化の生態系を破壊する」と題する識者の論文まで登場する始末であった。女の主戦場は家庭だ、とする性役割の固定化が崩れることに、多数の企業関係者や識者の一部が危機感を抱いていたのである。

 

そんな時代状況の中では、Aさんのような官僚が出現しても不思議ではない。Aさんなりの憂国の情に燃えていたがゆえの申し出だったと思うが、私はきっぱりと断った。固定的に性役割を考えるのは限界にきていること、近い将来(85年)批准する女子差別撤廃条約は女性に対する差別を撤廃するため必要な措置を取るよう求めていることなどを挙げ、均等法の制定施行に向けて記事を書いていくと申し上げた。

 

なぜ、この話を私に持ち掛けたのかはわからない。当時、頻繁に労働省に出入りして取材を進めていたが、Aさんとは名刺の交換はしていない。この問題の取材は女性記者が中心で私のように男性記者は珍しかったが、男性記者の方が話しやすかったなどの事情もあるのだろう。

 

◆脚光浴びた初の女性総合職

 

後日談になるが、85年に均等法が制定になると間もなく、Aさんは労働省を退職したという噂が伝わってきた。考え方が違うとはいえ、主義主張に殉じた昔気質の官僚魂に触れた思いではあった。

 

取材でよく会っていた赤松良子さんも、均等法を形にすることで相当苦労したことは、後に著した著作物などを拝見するとよくわかる。当時の労働大臣Oさんは「女性は外で働いたりせず家庭にいるのが幸せ」という女性観の持ち主だけに、「議論は空回りで一向に前に進まなかった」と書いている。

 

とはいえ、当時、労働省を取材で訪れると多くの女性たちが建物の周囲を取り囲み、「赤松さん、頑張って!」と拳を突き上げ、シュプレヒコールをしていた。そんな後押しもあって、均等法は成立する。

 

その成立に立ち会えたことは幸せだったが、徐々に私の関心は施行後に生じた新たな問題に移っていった。86年4月に同法は施行になるが、同年末、署名入りで次のような記事を書いている。

 

「(均等法の施行で)今後、能力ある女性は普通の男性にも差をつけ、エリート男性と肩を並べて仕事をするはずだ。だが、職場の男女平等とは〝強者〟だけに居心地がよいことだったのか、女性が男性化することだったのか―」

 

この文章は、「業界初の」といった形容詞で華やかな脚光を浴びたりした一握りの総合職女性を念頭に置いたものである。男女別の処遇ができなくなったので、均等法の施行前後から社員を総合職と一般職に振り分けるコース別雇用管理制度を導入する企業が増えるようになった。

 

経営者向けの冊子には、「コース別管理の考え方は、男・女の問題から出ている」という一文があったが、そうだとすれば同制度は男女別雇用を隠ぺいしたものと考えざるを得ない。

 

その後、「男性」対「女性」という対立の構図は「総合職女性」対「一般職女性」、さらに現在に至っては「正社員」対「非正社員」というように拡大かつ複雑化していったのである。

 

◆「偉くなりたかったら〝女〟を捨てろ」

 

記者生活の後半は管理職が長かったが、99年に編集局次長兼文化部長を卒業すると再びライターに戻った。同年は、男女共同参画社会基本法が制定施行になった年でもある。「均等処遇」の次は「共同参画」か、と思い、取材の比重を移していったが、こちらはなかなか厄介な側面があった。

 

2000年前半に男女平等に対する揺り戻し(バックラッシュ)の動きがあり、それらをいちいち紙面化するのは難しかった。男女共同参画という概念は、固定的性別役割分担の否定を奥底に秘める。それを読者に理解してもらうのは、当時はなかなか難しかったし、男女雇用機会均等法も初期の議論ではその問題が浮上したが、いつの間にか立ち消えになった。

 

要するに「男は仕事、女は家庭でどこが悪い?」という反応が当時は一般の大勢を占めるとまでは言えないにしろ、支持者はまだまだ多かったのである。

 

といって、それを脇に置いた記事では男女共同参画の理念を読者に正確に伝えることにはならない。「女性を書く」悩みを編集局次長のころ、同僚の局次長に話したら、こんなアドバイス(?)があった。

 

「お前ももっと偉くなりたかったら、〝女〟を捨てろ」

 

今もこの時のやり取りを思い浮かべるとつい吹き出してしまうのだが、結局、定年を迎えるまで、私は〝女〟を捨てなかった。

 

定年後は実践女子大からのお誘いがあってそこに10年、古希を迎えて今年3月に退職したが、その後も一般財団法人女性労働協会の会長として女性活躍関連の事業やファミリーサポート事業を推進するなど、相変わらず〝捨てる〟ことはしていない。5年ごとに見直しを行う国の男女共同参画基本計画の策定にも携わっている。

 

◆ようやく「女性活躍」が主流化

 

そして今は時代が変わり、「女性活躍」が国の政策の上位に位置づけられるようになった。「我が国の持続的成長を実現するには、最大の潜在力、女性の力の発揮が不可欠」などの政府公文書を読むにつけ、女性観なんてそんなに急に変わる?と思わないでもないが、本音はどうであれ、歓迎すべき時代の流れであることは間違いない。

 

新聞記者36年、大学教員10年、会長職半年と、計46・5年の職業人生の中で大半を女性問題に費やしたが、同時にそれは男性の生き方を問う男性問題でもあったと思っている。取材の対象も知名度の高い大物ではなく、ごく普通の働く女性、男性たちであった。そうした中に、結納を終えた直後に海外での交通事故で若い命を散らした最愛の娘も入っている。

 

通夜の席で婚約者が呟いた言葉。

 

「結婚したら家事を手伝うと言ったら、その考え方は家事は女の役目という発想。分担すると言いなさいと叱られました」

 

この話は〝女〟を書き、政策を立案する上での原点になっている。

 

かしま・たかし
1969年日本経済新聞入社 編集局生活家庭部長 編集局次長兼文化部長 編集委員 論説委員などを経て 2005年3月退社 同年4月から15年3月まで実践女子大学人間社会学部教授
現在 一般財団法人女性労働協会会長兼専務理事 男女共同参画会議議員 内閣府計画策定専門調査会会長等を兼務
著書に『男女共同参画の時代』(岩波新書)など

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