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コンファームはトップの口から 高島益郎外務次官の思い出(井芹 浩文)2015年11月

記者になったら誰でもあこがれるのがトクダネ記者だが、これには縁遠かった。努力不足、力量と見切るしかあるまい。そういう意味で、この欄を依頼されたときは正直言って困った。書いた話に大したトクダネはないし、まして書かなかった秘話などあろうはずがない。それでも、その程度の話かと言われそうなのを承知で書いておくのは、後輩記者たちの参考になればとの思いからだ。

 

◆意を決して高島次官に当てる

 

ほとんどを政治記者で過ごしながら、会社から唯一もらった編集局長努力賞は、日本の政変ならぬ、韓国の政変情報に対してだった。

 

情報がもたらされたのは1980年8月15日、金曜日の午前10時40分ごろだった。前日の14日には金大中氏の初公判が終わって韓国情勢も一段落と、ほっとしていた矢先。国会は開かれておらず、夏休み気分の状態でもあった。

 

外務省キャップの野上浩太郎さんに社会部デスクの片岡清さん(故人)から「明日16日に崔圭夏大統領が辞任を発表するらしい」との情報が伝えられ、野上キャップから「確認してくれ」との指示を受けた。

 

私はすぐにアジア局幹部(誰だったかは思い出せない)のところに跳んで行ったが、色よい返事はなく、あきらめかけた。そのとき、頭をかすめたのが前年の79年12月に盧載鉉国防相が突然、解任されたときのことだ。まだ、それがニュースとして報じられていないとき、高島益郎外務次官が定例懇談の席で「盧国防相も解任されたらしいですね」とポツリと漏らしたことを思い出した。

 

そうか、この種の外国首脳の人事情報は、知っていても下の人は出すまい。直接、高島次官に当てるしかないと意を決して次官室前で待っていると、たまたま所用で出かける次官をつかまえることができた。情報をぶつけると、気が抜けるほどあっさりとコンファームしてもらえた。

 

◆誤報にならないかとびくびく

 

直ちに帰って出稿したのが、次の原稿だった。

 

「政府筋が十五日明らかにしたところによると、韓国の崔大統領は極めて近い時期に辞任し、国軍保安司令官の全斗煥大将が大統領代理に就任するとの情報を外務省が得た」

 

手元には記事のスクラップが残っていなかったので、京都新聞縮刷版(15日付夕刊、1面左肩4段)で確認した。今、読み返すと汗顔の至りだ。「政府筋」はふつう首相官邸や閣僚、各省庁の高官を指す広いものだが、最後に「外務省」を入れたことで、頭隠して尻隠さずになっている。読む者が読めば、この「政府筋」も外務省高官のことだと分かったろう。

 

「明日にも」とせず「極めて近い時期」としたのは、外れたときのリスクを考えてのことだ。今なら「16日にも発表するとの情報もある」くらいは入れたかもしれない。当時は、怖くて書けなかったように記憶する。

 

同縮刷版の16日付朝刊には続報がある。これは当然ながら外信部が引き取って書いた。記事は「全斗煥・韓国新大統領 今月中に就任へ/崔大統領きょう辞任声明」とあって、脇見出しにわざわざ「外務省首脳確認」と入れてある。朝刊記事は、主として韓国の報道を引用して書かれており、ファーストハンドの情報が欠けているので、それを補強するためと、共同が抜いたのを印象付けようと外信部記者が敬意を表して書いてくれたと勝手に思っている。

 

実は、このとき共同通信はソウル特派員がいなかった。前任の林憲一郎支局長が国外退去させられていたからだ。外国の政変を書けた理由、あるいはもう少し積極的な理由は、特派員がいなくても韓国情報に関しては共同が強いというところを示したいとの思惑もないではなかった。ちなみに受賞時の編集週報(社内報)には「ソウル支局閉鎖中という困難な情況下にもかかわらず、この国際的スクープができたのは…」と編集局サイドがわざわざ言及している。

 

この日は次官懇談の日だった。そこでも情報は裏打ちされた。編集週報に私は「夕方の定例懇談の後で、他社の親しい記者から『当たっていたね』と声を掛けられたときが一番うれしかった」と率直に書いていた。裏返すと、記事は出したものの、とんでもない誤報になりはしないかと、内心びくびくしていたのである。

 

ほかのトクダネ記者はどんな気持ちなのだろうか。自信満々なんだろうか。それとも、私と同じく気が気でない心境なのだろうか。

 

◆捕虜収容所でのドイツ人と日本人

 

今回、この原稿を書くに当たって、情報ソースを守り続けるかどうか迷った。私の判断としては、もう時効だろうということと、高島さん(後に駐ロシア大使、最高裁判所判事を務められた)も鬼籍に入られているので、情報源を明らかにしても実害はあるまいと考えた次第だ。

 

高島さんといえば、条約局長時代の日中国交正常化交渉で正論を押し通したが故に、周恩来総理をして「法匪」と言わしめ、最後には「こういう有能な人物が欲しい」と言わしめた人物。もっとも「法匪」発言については、読売新聞の島脩氏が本会報2002年3月号の『書いた話 書かなかった話』で、その趣旨の厳しい発言はあったものの、その言葉自体は周恩来から発せられなかったことを実証している。

 

次官公邸での定例懇談も楽しみだった。高島夫人がときどき顔を出して何かと口を挟むのが面白かった。高島さんは嫌がるでもなく、自然に振る舞っていたように思う。

 

そのとき聞いて印象深いのは、シベリア抑留時の話だ。高島さんはシベリアから移されて、ウラル以西の捕虜収容所にいた。そこではドイツ人捕虜と一緒だったという。ドイツ人も日本人もロシア人を馬鹿にしていた点では同じだったが、ドイツ人は結束してロシア人をだます方策を考えたのに対して、日本人は個々人が抜け駆けする点で違っていたと、話された。ほとんどの雑談は忘れたのに、この話だけは今も覚えている。これを発展させれば、日本人論につながりそうだ。

 

◆新自由クラブ解党情報

 

高島さん関連ではないが、深く関与したトクダネは、86年8月11日の新自由クラブ解党の報道だ。

 

「こちらの新自由クラブ所属の市議が『新自由クラブが近く解散する』と言ってますが、知ってますか」

 

「エッ、何だって!」

 

午後3時30分、最初の情報を政治部の野上浩太郎デスクにもたらしたのは岸和田通信部の中村博文記者(このときの編集局長努力賞は中村記者だけに与えられた)。学生時代から11年間、政治部でいわゆるボーヤ(編集庶務)として働いていた。岸和田市役所記者クラブには朝日、読売の記者もいたが、他社が大阪社会部デスクを介して連絡している間に直接、政治部デスクに電話したのだった。

 

私は当時、平河クラブ・キャップになったばかりだった。野上デスクからの情報を受けて、新自由クラブ担当の三笠博司記者に取材に行ってもらった。三笠記者は山口敏夫幹事長周辺を当たって戻って来て「間違いありません。12日午後0時半からマツヤ・サロンで全国幹事会。15日党大会で正式に解党を決めます」と言う。直ちに野上デスクに電話し、フラッシュを出したのが午後4時4分だった。

 

この時間帯では新聞には影響がない。ラジオ・テレビの動きを追ったが、なかなか動きがない。大丈夫かなと不安に思っていたとき、NHKが午後5時15分、テロップを出した。1時間以上経っていた。

 

このときは三笠記者を信じていたので、誤報という不安は感じなかったが、それでも後追いが出て初めてほっとした。

 

全斗煥大統領就任時の報道の時と同様に、トクダネというのは、後からは胸を張って言えるのだが、そのプロセスでは決して心穏やかなものではないな、と悟った。

 

いせり・ひろふみ
1947年生まれ 69年共同通信入社 政治部記者 ワシントン特派員 総合選挙センター長 論説委員長などを務め2007年退社 現在 崇城大学教授 共同通信客員論説委員 著書に『派閥再編成』『総理のリーダー術』『憲法改正試案集』など

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