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「あの子には神さんがついとる」日系大統領の母 藤森ムツエさんのこと(千野 境子)2015年7月

貧乏性なのか、取材したことはせっせと字にしてきたので、書かなかった話は少ない。少し出し惜しみしておけば良かったと後悔する私の前に現れた救いの神、それはペルー初の日系大統領アルベルト・フジモリ氏(在任1990年~2000年)の母堂、藤森ムツエさんである。

 

私のペルー取材は、今は第二の祖国ペルーの地に眠るムツエさんに多くを負っている。往時を想い、遅すぎたお礼とともに書いた話も書かなかった話も、みな綴ることにする。

 

◆スペイン語混ざる熊本弁

 

ムツエさんとの出会いは、1990年6月のこと。同月10日、フジモリ氏が大統領選の決選投票に勝利し、以後首都リマには日本のマスコミ各社が一朝事あるごとに集結した。産経は中南米に支局を置いていないため、ニューヨーク特派員の私にお鉢が回ってきたのである。

 

最初、ムツエさんは少々とっつきにくかった。取材攻めにウンザリしていたのかもしれない。故郷の熊本弁に時折混ざるスペイン語にも、分からない私は戸惑った。

 

――選挙は相談されましたか。

 

ムツエ「しましたよ。私は頭から反対、反対してきましたけどのう。それでもその、あの何が…アディビナンサがおるの」

 

――アディビナンサが。

 

ムツエ「そう、アディビナンサが。あの人がのう、アルベルトは十年したら大統領になると、十年前にそう言ってらしたそうな」

 

そうか、アディビナンサは占い師で大統領就任を予言していたんだと勝手に解釈し、私は聞き役に終始した。話が面白い上に語り口に何とも言えない味があり、話の腰を折らない方がよいと思ったからだ。

 

結果的にそれが良かった。ムツエさんはどんどんノッてきて、フジモリ氏が2歳半の時にジフテリアで命拾いしたこと、だからあの子には神さんがついとると言い、「あなたにばっかりよ、こんなして話すのは。ジフテリアの話は誰にも話さんつもりだったの。今度、アルベルトのことを書こうと思っとったから」と打ち明けると、ニコッと笑った。

 

◆官邸で見たフジモリ夫妻の素顔

 

1934年、新郎の藤森直一氏とペルーに渡った21歳のムツエさんは病弱な夫の分まで働き、激動の戦前・戦後を生き抜き、3男2女を育て上げた。そんな半生についてのインタビューは「話の肖像画・息子が大統領になる」と題して、勝利の余韻がまだ残る90年6月21日から8回にわたり産経新聞夕刊に連載された。

 

7月28日の大統領就任式に出席する日本関係者には「ムツエさんに会いたい」との希望が相次いだという。母子ともに時の人となった。

 

ハイパーインフレや左翼ゲリラが跋扈する危機の中、船出したフジモリ政権に対する日本の関心は高く、マスコミ・フィーバーは続いた。フジモリ政権の動向だけでなくムツエさんの一代記を連載せよ、とのさらなる注文も東京から来た。

 

移民船が着いたカヤオ港、ムツエさんが初めて所帯を持ったリマ北方200㌔のワチョ、日本人移住史料館、一家が暮らした下町界隈…ムツエさんや日系移民の足跡を求めてカメラマンと各地を訪ね歩いた。

 

お愛想など一切言わないムツエさんだが、「あの人に会いなさい」「あそこへ行けば」などアドバイスのほかに、フジモリ氏が国立農業大学学長就任前に入手した広大な耕地へは四輪駆動で自ら案内してくれた。故郷に倣ってムツエさんの植えたみかんの木が見渡す限り広がり、フジモリ氏と一緒に過ごす日を楽しみにしているようにみえた。その後の運命の激変はどれほど無念だったことか。

 

また大統領就任1年を目前にした91年7月下旬のある夕方、急に「パラシオ(官邸)へ行こう。ウステ(あなた)も一緒に来なさい」と言うと、警備の車を大統領官邸に向かわせた。勝手を知る場所のように通り抜け着いたところは食堂。フジモリ夫妻と坊やがいて、就任1年のスピーチの準備にメモを走らせるスサナ夫人の横で、フジモリ氏が器用にリンゴの皮をむいていた。あら、やっぱり2人は逆だわネと思った。

 

ムツエさんによれば、おしめを替え、ミルクを飲ませ、風呂に入れ…と子育てしたのは「ヨー(私)とアルベルト。スサナはしなかった」。

 

一代記は91年7月2日から朝刊生活面に110回連載された(『ペルー遥かな道』で中公文庫に所収)。

 

この間、日本人農業専門家3人が左翼ゲリラのセンデロ・ルミノソに殺害されるなど事件は多く、また任地ニューヨークでも湾岸戦争など国連の取材に忙しかったが、ペルー出張でムツエさんや日系の方々に会うのは、心和むひと時だった。

 

◆突然の辞任 真相は謎のまま

 

しかしムツエさんにとって緊張の中にも充実した幸せな日々は、フジモリ氏が再選を果たした95年頃がピークだったのではないかと思う。

 

圧勝しながらフジモリ政権はなぜ苦境に陥っていったのか。1期目のテロ制圧のような具体的成果を出すには、ペルーの制度的不備や構造的欠陥はあまりに大きく、そこにまでメスが入らない限り、フジモリ氏の強権をもってしても、状況は手詰まりになるほかなかったのだろう。

 

96年12月18日。確か夕刻だった。シンガポール支局のテレビから流れた画像に私は息をのんだ。

 

トゥパク・アマル革命運動によるペルー日本大使公邸占拠事件で、解放され、治安部隊に付き添われ現れた人質はムツエさんではないか。テレビも映像を転載した日本の新聞も、ムツエさんと気づかなかったのか何の言及もなかった。

 

ゲリラに知られなかったのは不幸中の幸いだった。もし母親が交渉材料に使われたら、フジモリ氏はどうしただろうと思った。ムツエさんは「このテロの国で大統領になる以上、ヨーはお前を死んだと思うことにする」と就任の時に覚悟した。危機の国で母も子も背水の陣だった。

 

翌年4月、特殊部隊が突入し事件は解決した。大胆で鮮やかな手腕。しかし政権の危機はさらに深まっていった。2000年11月、フジモリ氏はブルネイでのAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の帰途、日本で大統領を辞任、議会は罷免した。事態急変の裏に何があったのか。真相は今も謎である。

 

フジモリ氏は日本に長期滞在となり、ムツエさんも病気の治療を兼ねて日本で晩年を過ごした。

 

私が知る限り、ムツエさんをドラマ化する話が2度あった。最初は映画で1期目の頃。2度目は2009年、ムツエさんが96歳の生涯を閉じた後で、私の追悼記事を読んだある女優のマネジャーから突然、電話があった。ムツエさんの生涯をテレビドラマにしたいという。誰もが知るその女優さんが、ムツエさんを演じたら素晴らしいなと思った。

 

出来上がった脚本は、リマを訪れた若い女性記者がムツエさんに会う場面から始まり、思わず苦笑したが、とても良いストーリーだった。

 

日の目を見なかったのは、現地ロケに多額の予算がかかる上にフジモリ氏の置かれた政治状況もあったのではないだろうか。異国に生きたあっぱれな母の物語に、複雑できっかいな権力政治譚はそぐわない。

 

フジモリ氏はいまも収監中だ。しかしムツエさんのこと、息子を信じ「あれには神さんがついとる」と天空で泰然としていると思いたい。

 

ちの・けいこ
1967年産経新聞入社 マニラ特派員 ニューヨーク シンガポール各支局長 外信部長 編集委員 取締役論説委員長 特別記者などを務め 2012年退社
著書に『女性記者―論説委員室の片隅で』『インドネシア9・30クーデターの謎を解く:スカルノ、スハルト、CIA、毛沢東の影』『なぜ独裁はなくならないのか―世界の動きと独裁者インタビュー』など

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