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知日派指導者 胡耀邦の子息来日で思い出したこと(加藤 千洋)2014年9月

日中関係は依然として冷え込んだままだが、この春くらいからか、双方に「出口」を求める動きも出てきた。11月に北京で開催されるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)をターゲットに、特使派遣など水面下の動きも伝えられる。


そんな中で、おやっと思ったのは今年4月の胡徳平氏の来日だった。知日派として知られた故・胡耀邦元総書記の長男だ。共産党や政府の要職にはないが、互いに党中枢だった父親を持つつながりで習近平総書記と「直接対話ができる関係の数少ない知日派」という。官房長官や外相、野党要人らと会見していったが、安倍晋三首相との面会が実現したことは公表されなかった。


外務省の招待だったそうだが、共産党指導部の了解があっての来日であり、日中関係打開の何らかの瀬踏みの意味があったのだろう。私も外務省関係者から「黙っていたら向こうから誰も来ない。こちらから仕掛けないと」との解説を聞いたから、日本側が模索する出口戦略の1こまだといえようか。


ところで、その胡徳平氏が帰国して間もなく目にしたA紙のベタ記事に、私は別の意味で注目した。


2012年の党大会で習近平氏にバトンタッチして以降、中国メディアにも登場がまれな胡錦濤前総書記に関する動静報道だった。湖南省瀏陽市にある胡耀邦元総書記の生家と記念館を夫人とともに訪れ、銅像に献花したのだという。


元総書記が心臓発作で死去したのは1989年4月15日のこと。あの6月4日の天安門事件の直前である。というより学生に理解のある指導者の死が、政治の民主化を求める学生たちを天安門広場に結集させる、重要なきっかけとなったのだ。


胡錦濤氏の4月11日の生家訪問は、「師」と仰ぐ元総書記の25回目の命日の直前というタイミングだった。この記事を目にし、私自身が記事にしなかったものの、いまも忘れ難い、2人の胡氏の人間関係に関するエピソードを想起したのである。



中国南部の江西省に中国最大の淡水湖、?陽湖がある。その西側湖畔に共青城という風変わりな地名の町がある。「共青」というのは中国共産党の青年組織、共産主義青年団(共青団)のことだ。胡耀邦、胡錦濤両氏とも、そのトップ経験者だ。前総書記は元総書記によって共青団第一書記に抜擢された、というのは中国ではよく知られた話だ。


私が共青城を訪れたのは03年春のことだったが、現地で耳にした地名の由来は、だいたいこんな話だった。


新中国建国から間もない1955年のある日、上海の若者100人近くが無人の荒地に入植した。中国民衆が共産党の指示によって国造りに打ち込んでいた、よき時代のことである。?陽湖周辺は湿地が多く、農業には不向きな土地だったが、毛沢東の呼びかけに応え、都会生活を捨てた若者たちがテントに泊まり込んで開墾事業に挑んだのだ。


間もなく北京から共青団中央の責任者が慰問に訪れた。小柄ながら言動に独特の力を感じさせる若手幹部だったという。それが当時、共青団第一書記だった胡耀邦である。


テントに泊まり、焼酎を飲み交わし、若者たちの悩みを聞き、励ましていった。この体験は若者だけでなく、第一書記自身にとっても忘れ難き思い出になったのだろう。なぜなら胡耀邦氏の遺言に基づいて、墓所は?陽湖を見下ろす共青城の丘の上に定められたからである。


その墓参を済ませると、案内人は私が記者であることにいささかのサービス精神を発揮してくれたのか、一般には公開していない施設にと導いてくれた。清掃具など作業用の器具などもしまわれた、何の変哲もない倉庫である。そこにほこりをかぶったままの花輪が置かれていた。中国のそれは紙やプラスチックの造花でできており、保存がきくのだ。


十数個あったなかで、まず目に入ったのは中央の2つである。右手の花輪にかけられた白い布の対聯には、右に「敬愛的父親」とあり、左には「長子 徳平」、その下に、謹んで哀悼するという意味の「敬挽」という文字が書かれていた。


その喪主が贈った物の左隣にあった花輪の対聯には「胡耀邦同志 永垂不朽」「胡錦濤 敬挽」とあった。永垂不朽とは死者を弔う決まり文句だが、その功績は永遠に朽ちることがない、という意味である。


花輪はいずれも納骨式が執り行われた90年12月の物との説明だった。ほかに当時の有力者たちが贈ったと見られる花輪の類は、目につかなかった。


胡耀邦氏は86年末から87年初めにかけて起きた学生運動に際し、学生に同情して対応が手ぬるいと長老らから批判され、総書記辞任に追い込まれた。事実上の解任だった。84年秋に日本の青年3000人を独断で招いたことなど、対日関係で元総書記が積極的に動いたことも「罪状」となった。


その後、亡くなるまで政治局員の地位は保ったものの、政治的には処分を受けた身で、納骨式も中央の指導者が顔をそろえるといった、にぎにぎしい格式にはならなかった。政治的に慎重に配慮し、あえて弔意を示さなかった幹部が多い中、当時、チベット自治区党書記だった胡錦濤氏は花輪を贈り、哀悼の意を表したのである。


案内人がわざわざ倉庫の中まで見せてくれたのは、胡錦濤氏が総書記となって半年後のこと。どういう配慮だったのか真意はわからないが、薄暗い倉庫に並んで保存された花輪を見せられ、私は2人の胡氏を結ぶ確かな絆を感じ取ったものである。



そうそう、そこで案内人がもう2つ、興味深いエピソードを語ってくれた。そのことも書いておこう。


納骨から3年目の夏、日本から初老の婦人がやってきて、墓前にひざまずき、ぽろぽろと涙をこぼしていったという。去年秋亡くなった作家の山崎豊子さんだった。


91年に出版した代表作の1つ『大地の子』は、胡耀邦総書記の全面的な支持があって完成したともいえる作品である。綿密な取材をベースに創作するのが山崎さんの一貫したスタイルだった。胡耀邦氏は山崎さんの語る構想に賛意を示し、直ちに関係方面に指示を出し、当時は外国人には非公開だった刑務所や、舞台となる中国東北部の辺境地帯の取材にも特別の許可を出したのである。


もう1つは、胡耀邦氏の命日に日本の政治家からの依頼で、墓前に花が手向けられるというのだ。案内人が口にした名は、いまも90歳を超えて健在の総理経験者だった。そういえば現職時代、胡耀邦氏との盟友関係をしきりに誇示していた。



こうした「昔話」をふと思い出したのは、元総書記から前総書記へと受け継がれたであろう「対日関係重視」の考え方が、いまの習近平指導部ではどうなったのか。それが大変気になるのと、現在の日中間の政治家同士の交わりに、血の通った、人間味を感じさせるやり取りが、あまりにも少ないと感じるからである。交わりすらできないというのは、論外である。


かとう・ちひろ

1947年生まれ 72年朝日新聞入社 論説委員 外報部長 編集委員などを歴任 この間に北京に2回 バンコク ワシントンに駐在 2004年以降「報道ステーション」(テレビ朝日系)コメンテーター BS朝日「にほん風景遺産」風景案内人を務める 中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞 2010年4月から同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授

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