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経済記者がみたエピソード 政治家とカネ、派閥…(小島 明)2014年8月

「ここだけの話だが」と経済企画庁長官だった中尾栄一氏が得意そうに語った政治家とカネのエピソードがある。もっとも、ご当人は、どこへ行っても「ここだけ」と言っていたようだが。


「派閥の親方の中曽根康弘先生のところで時々軍資金を頂戴したが、いつも『政治家はかくあるべし』という類のお説教つき。差し出された封筒を引っ張っても、中曽根先生はグッと押さえて離さない。腕が疲れるころにようやくお説教は終わる」


「田中角栄先生にもあいさつに行った。新聞紙に包んだものをグッと差し出して、『中尾君まあ頑張れ』と一言だけ。後で開いたら、中曽根先生から長いお説教つきで受け取ったものの10倍も入っていた」


「病気療養している時、福田赳夫さんも見舞いに来てくれた。世間話をした後、福田さんが私の枕元に風呂敷包みを置こうとした。すぐアレだと分かり、『昔はいろいろ苦労をしたこともありますが…』と言ったら、福田さんは『ほっほー、そうかい』と言って、包みを持って帰ってしまった」


私は経済記者だったから、会った政治家は経済閣僚がほとんど。「ほっほー」の福田氏とは彼が三木内閣の副総理・経済企画庁長官の時。「経済総理」とも呼ばれ政権の経済政策を取り仕切っていた。通産省(現・経済産業省)に担当が変わる時、あいさつのため福田氏の自宅へ夜回りした。玄関脇の応接室に1人だけ通された。1つ奥の応接室は各社の福田派政治記者のたまり場でにぎやかな声が聞こえた。


担当クラブが変わると言うと、家族用の大きな居間に通された。こたつでみかんを食べながら、福田氏は「ところで、経済記者は派閥を作れないのかね」と切り出した。「景気の判断が派閥で変わることもないでしょう。だいたい、経済政策は経済総理が全て取り仕切っておられるし」と返答すると、「それもそうだな。でも、さみしいね」。


帰り際、玄関で同氏がまた言った。「あのこと(経済記者の福田派づくり)よろしく」。政治家にとって「派閥」とは、そういうものか、と実感した。もっとも昨今は、「派閥」の重さがそれほどではなくなっているようだが。



金権政治批判で退陣した田中角栄首相の後、自民党のイメージ向上を期待されて三木武夫首相が生まれた。三木内閣で通産大臣になったのは河本敏夫氏。同氏は「クリーン三木」内閣における〝濁1点〟と見られ、彼を大臣にいただいた通産省はひどく失望した。


しかし、同省における河本氏の評価はあっという間に変わった。国会も初めは、この〝濁1点〟大臣を野党が追及した。だが、「そんなカネをどうして得たのか」との野党の質問に対する答えで、河本イメージは一変した。「7つの海に繰り出し、列強を相手にして闘いました。そして勝ちました」


そんな河本氏を大蔵省(現・財務省)はどう見ていたか。通産省クラブの後、大蔵省クラブ(財研)に移り、前後3人の次官に「大蔵大臣になってほしい政治家は誰ですか」と尋ねた時、3人とも「河本だ」と口をそろえた。理由も同じだった。つまり①予算について飲み込みが早く、正確である②約束を守る。実現しなかったこともあるが、約束したことは最大限その実現に努力してくれた というもの。河本氏は実質的にオーナーだった三光汽船が倒産したこともあり、何度も自民党の総裁候補に挙がったものの実現しなかった。


その河本氏は天文学が大好き。それを聞いて友人の天文学者の小平桂一教授を交じえ会食したところ、当初は1時間が限度といっていた河本氏だが、目を輝かせて結局2時間以上も宇宙談義に加わった。


その時の、まさに少年のように澄んでいた彼の目が印象的だった。世評必ずしも真ならず、である。



アメリカ人のエピソード。取材域を越えて個人的な付き合いをしている外国人の政策マンのひとりは、ポール・ボルカー元FRB(米連邦準備制度理事会)議長。最初に会ったのは彼がニューヨーク連銀総裁だった1976年ごろ。2メートル1センチの長身で、ゴルフをやるのかと聞いたら「ちょっとだけやってやめた。ボールが遠すぎる」とユーモアのある答え。


一時期までいつも葉巻をくわえ、葉巻がトレードマークだったが、いまは全く吸わない。理由を尋ねると「ワシントン勤務(FRB議長)になった時、役所はすべて禁煙。FRBは官庁ではないが、それに準じて禁煙。事務所の至る所に禁煙マークが貼られ、貼り紙を見るたび不愉快になった。また家に帰ると、家内と娘がタバコを吸うのは野蛮人だと、声高に非難する。全く同情はなかった。そんな状況では、中途半端な禁煙ではむしろ欲求不満にもなるので思い切り、全てやめた」とのこと。


FRB議長の時に日銀の招きで訪日した際、宿舎の帝国ホテルに夜回りした。招いた日銀は彼の宿舎を極秘にしていた。しかし、帝国ホテルに電話したら、交換台が私を日銀の者だと思ったのだろう。部屋につなごうとしたので、部屋番号だけ確認した。後刻、彼の部屋をノックすると、ゆかたが甚平のように見える格好で、眠そうな目をこすりながらドアを開く。日経記者だと名乗ると、言うことはないとドアをピシャリ。


この時の夜回りには相当ショックを受けたようで、「日本でひどい目に遭った。〝忍者〟が押しかけて来た」と言っていたようだ。


FRB議長を退任し、気軽な身になって訪日した時、京都旅行を共にする機会があった。「実は、その時の忍者は私です」と〝自白〟したところ、驚きながらも、すんなり水に流してくれた。以後、三極委員会などでの交流もあり、家族ぐるみの付き合いが始まった。


この京都への旅の途中、パチンコをやりたいと言い出した。私もほとんどやったことがない。2人とも、アッという間に、玉を打ち尽くした。パチンコ屋ではパンチパーマの若者を挟んだ席となった。2人はこの若者の頭越しで、大声で話した。


後で気がついたのだが、パンチパーマ氏は相当頭にきたに違いない。それでも相手はジョン・ウェインを思わせるような大男だったせいか、何も言わず、しばらくして出て行ってしまった。東京に戻ると、彼は「もう一度パチンコに挑みたい」と言い出した。


日本長期信用銀行が1998年に経営破綻し、一時国有化された後、同行の買収を検討していた米国の企業再生ファンド、リップルウッドのCEO、ティモシー・コリンズ氏と同社の顧問役のボルカー氏から「雑談したい」と電話があった。パレスホテルで会った両氏は、心配そうに言った。「仮に外国資本が長銀を買収したら日本の社会はどう反応するでしょうか」


両氏が懸念していたのは日本社会の外資への反発だった。「防弾チョッキを着ないでも済むのか」とコリンズ氏はつぶやいた。それほど、日本社会の反応を気にしていたのだ。


ボルカー氏について書いた邦訳書が私の書斎に何冊かある。それには彼のサインとともに、「忍者へ捧げる」としたためてある。


一度ボルカー氏を横浜郊外の我が家での夕食に招いたことがある。彼は畳の部屋で窮屈そうにしながらも、大いに食べ、大いに語った。


その後しばらくして、彼はオバマ政権の政策顧問に就任した。


こじま・あきら

1942年生まれ 1965年日本経済新聞入社 ニューヨーク支局長 編集委員 論説委員 常務取締役論説主幹 専務取締役論説担当などを務めた 現在 日本経済研究センター参与 1989年度日本記者クラブ賞受賞 著書・共著に『日本の選択<適者>のモデルへ』『日本とアメリカ:パートナーシップの50年』など多数 近著に『「日本経済」はどこへ行くのか』(全2巻)

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