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「関空ベリマッチ」 大阪空港─公害訴訟─そして関西空港(中元 孝迪)2014年3月

ダジャレが過ぎて、少しカミそうになるのだが、


「関空ベリマッチ」


という奇妙なキャッチコピーが躍った時期があった。当時の横綱曙関が大写しされたポスターのコピーで、京阪神の随所に張り出され、テレビCМでも盛んに流されていた。


関西国際空港が開港式を迎える直前、1994年の8、9月ごろだった。新空港が難産の末誕生し、「あけぼの」を迎えたことを喜び、国内外に「サンキュウ」といったのだ。


◆三候補地をめぐって


関西の空は、いま、この関空と、大阪国際空港(伊丹)、神戸空港の三空港が共存を目指すとしながらも、きしみ音を立て続けている。厳しいせめぎ合いの源流は20年前の「関空ベリマッチ」に端を発するのだが、もっとさかのぼれば、さらにその20年前、1974年のことになる。


当時、関西第二空港、つまり関西国際空港の建設が決まり、その三つの候補地─泉州沖、神戸沖、播磨灘(高砂沖)の優劣をめぐって関西メディアの報道合戦が始まっていた。


神戸沖は、神戸市の反対があって事実上〝除外〟された格好だったが、利便性などからいってまだ根強い支持もあった。高砂沖は、空域の広さから特に日航の国際便パイロットから有力視されていた。泉州沖についてはさほど特色ある支持項目はなかったが、全日空関係者が推しているとの推測があった。もし、高砂沖に決まると最も不利益を被るのは東京─大阪というドル箱路線を重視する全日空だ。ちょうど、次期大型旅客機「L─1011トライスター」の導入を決めたばかりで、のちに、「ロッキード事件」に発展するのだが、それはさておき、同社にとっては大阪都心部からのアクセスがいい神戸が最適と考えていた。しかし、その選択が除外されたことで、高砂沖に比べて、よりましな泉州沖を推すといった風聞も流れていた。


◆リークと審議会誘導


こうした状況の中、運輸省(当時)航空審議会で、候補地選定の委員投票が行われることになり、その行方が地域の最大関心事となっていた。


そんな初秋のある日、突然某紙の一面トップで「新空港、泉州沖に」というスクープ記事が掲載された。三候補地の優劣を決める航空審が開催される直前、絶好のタイミングでのスクープだった。そのとき私は、遊軍記者として大阪国際空港を担当しており、一応、関西新空港問題もカバーしていた。


「抜かれた」その日、関西在住の航空審の一委員に、遅まきながら〝夜討ち取材〟に及んだ。その委員は、こう話し始めた。


「運輸省は、泉州沖で決着しようとしているのです。審議会担当の役人が、私の所にも来て、いろいろと〝背景説明〟をしましたが、要は、新聞に出た、その方向で投票を…と言わんばかりの話でした」


「リーク」だと思った。審議会で、泉州沖以外の候補地が高得点を得れば、選定作業は大混乱に陥る。事前調整という〝審議誘導〟である。審議会というのは、こんなものなのかと、当時入社10年足らずの私は、妙に感心したのだが、神戸誘致勢力もまだ地元にはあって、その動向も気になっていたので、「神戸についてはどうですか」と水を向けたところ、彼は意外なことを口にした。


「明石海峡大橋の建設計画がありますね。あの吊り橋は、高さ300㍍近い2本のピア(橋脚)によって橋床(道路部)が支えられる構造です。神戸沖に空港ができれば、その高いピアが航空機の発着に支障をきたす恐れがあると言っていました」


後に私は、コラムを書くため大橋開通の直前、ピアの最上部に登って取材したことがあった。確かに橋脚は高く、航空機の邪魔になりそうな気配を感じなくもなかった。が、実際のところ支障はなく、いまも航空機はその上を飛んでいる。要は、他候補地へのマイナスイメージを増幅し、泉州沖への票固めをしていたのだった。リークと審議会誘導は、いまなおまかり通っているのではないか。


ところで、この時の航空審は「利用の便利さ」「管制・運行」「環境条件」「建設」「既存権益との調整」「地域計画との整合」「開発効果」の七項目で優劣が争われた。投票の結果は


① 泉州沖82・7点

② 播磨灘(高砂沖)76・6点

③ 神戸沖73・6点


という序列となった。運輸省の思惑通り、審議会の結論は泉州沖に決まった。その2年後に発覚した「ロッキード事件」との関連を疑う見方もあったが、詳しい検証をすることもなく時は過ぎた。


◆「騒音問題」とセットに


審議会の「採点」を受けて、新空港計画が動き出すのだが、当時は、空港に関するもう一つの、というより、最重要の懸案だったのが大阪国際空港をめぐる騒音公害の問題だった。運輸省は、新空港計画の冒頭で、「大阪国際空港の騒音問題の抜本的解決を図るため、新しい空港は大阪国際空港の廃止を前提に」して建設することを明確に打ち出さざるを得ない状況であった。


大阪国際空港の騒音問題は、航空審議会が泉州沖を決めたその時から、さらにまた10年さかのぼった1964年、大型ジェット機が伊丹に乗り入れた時に始まる。その直後、騒音に悲鳴を上げる周辺住民の声を受けて伊丹市など八つの自治体が環境改善を求め、いわゆる「八市協」(後の「一一市協」)を組織した。住民も、69年には国を相手取り、騒音、排ガス等による被害救済を求め国家賠償請求訴訟を起こす。これが、わが国五大公害訴訟の一つに数えられる「大阪空港訴訟」である。


この間、大阪国際空港は「欠陥空港」であるという認識が強まり、周辺に「空港撤去」の声が広がった。〝迷惑施設〟と称される公的建造物などが撤去される例はいくつかあるが、空港という大規模施設の撤去などありうるのか、といった疑念は残ったものの、73年には地元の伊丹市が「大阪国際空港撤去都市」を宣言するほど、その被害は深刻化していた。このため被害救済という大義を掲げ、新空港の建設促進を図ろうという考えが出ていたのである。


こうした厳しい経緯を経て、新空港建設のお膳立てが整った。1987年、新空港は「関西国際空港」として正式に起工式を迎え、7年後、開港にこぎつけた。まさに「関空ベリマッチ」だったのだろう。


◆激変する空港事情


関空計画が動き出すとともに、空港をめぐる環境が激変していった。周辺民家の防音工事を軸とする環境整備が進んだ。騒音も、うるさいことに変わりなかったが、少しずつ改善された。周辺住民との和解も成立する。そして、バブルが崩壊し、地域経済の活性化が何より求められる時代となった。迷惑施設とさえ思われた空港は、いつの間にか、地域再生の切り札になっていく。


関西国際空港は「大阪空港の撤去を前提に造る」はずだったが、その後、「直ちに廃止を前提にしたものではない」という奇妙な解釈を経て、建設が進められた。一方、大阪国際空港撤去宣言をしたはずの自治体は、17年間守り抜いた信念を大転換し、1990年、運輸省との間で「空港の存続及び今後の運用に関する協定」を締結するに至った。確かに被害は減ったが、「伊丹の利便性」は公害被害を乗り越えてしまったのである。


さらに、本命でありながら新空港を拒否した神戸市が、独自で神戸空港の建設に乗り出し、2006年2月、開港にこぎつける。三空港は、ライバル関係になったのだ。


そしていま。航空需要が伸び悩む中、各空港の経営環境が厳しさを増している。三空港は一体運用を目指すが、そのめどは立っていない。「関西の空」の混迷は、1974年の航空審議会に始まった〝場当たり的〟とも思われる航空行政が招いた結果である。その猛省の上にたって、いつか


「三港ベリマッチ」


というキャッチコピーが登場する日は来るのだろうか。


なかもと・たかみち

1940年生まれ 64年神戸新聞入社 社会部 コラム担当論説委員 論説委員長 常任監査役等を経て 2005年姫路獨協大学副学長就任 現在 兵庫県立大学特任教授 播磨学研究所長

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