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竹入訪朝団同行 北朝鮮で交通事故に遭った話(鈴木 勝利)2014年2月

1972年6月5日の夕方、ピョンヤン郊外の共同農場の取材を終えて、ピョンヤンのホテルへ帰る途中のことでした。単調な田舎道で、半分うとうとしていた時に目の前の光景が一変し、気がついた時には私の体は逆さまになっていました。車がスピードを出し過ぎていたために、カーブを曲がり切れずに道路下に転落、畑の中に突っ込んだのです。


腕と足に若干の痛みは感じましたが、それでも何とか自力で車のドアを開けて外に出て、状況を確認することができました。


◆ベンツに分乗、最後尾で…


私の横に座っていた同僚の萩原敏カメラマンは、完全に眠りこけていたようで、何が起きたのか事態が把握できなかったようでした。それでも、手に抱えていたカメラの点検を始めていました。運転手や同行していた通訳も車外に出て、それぞれのけがの状況を確認。運転手が一番の重傷のようで両腕から大量の出血がみてとれました。


訪朝団は10台ほどのベンツに分乗して行動していて、私たちの車は最後尾を走っていました。事故のために、しばらくは現場で待機することになりましたが、随分時間がたったなという感じでした。車の通行が全くないピョンヤン郊外。しばらくして先に行った車が戻ってきて、やっとわれわれを発見、私と萩原カメラマンは、この車で市内の病院に運ばれることになりました。


一番重傷のようだった運転手がどうなったかはわかりませんが、すべては運転手のミス。前の車に追いつくためにスピードを出し過ぎたのが原因で、後で重い処分を受けたのではと想像しています。


当時、ピョンヤンに車が何台あったかわかりませんが、われわれ一行が街中を移動するときに他の乗用車を見た記憶がないので、貴重なものだったはずです。ベンツ1台を壊したのは大変なことだったでしょう。ベンツだったから助かったので、そうでなければ死んでいたかもしれないと、後々みんなにいわれました。


◆外国人専門病院で手術


運ばれたのは紅十字病院。外国人専門で、清潔な病院でした。看護婦もみんな美人でした。医師の診察の後、足と腕に刺さった車のガラスを取り除く手術を受けることになりました。手術はとても手際よく行われたことを記憶しています。いまでも腕と膝にかすかな傷痕はありますが、病室でゆっくり休むことができて落ち着いたことを覚えています。


幸い萩原カメラマンは、カメラを抱えていたために私よりは軽傷で済みました。帰国前日のこの日の夜は北朝鮮側との共同声明が発表される予定で、訪朝団にとってはとても大事な夜でした。結局私たち2人は、他の団員とは連絡がとれないまま、一晩を過ごすことになりました。


この年は、朝鮮半島の緊張状況が和らいだ年でした。米中の国交回復を受け、日本も中国との国交回復に動いていた年で、朝鮮半島でも南と北の交渉が進められていて、ひと月後には南北の会談も予定されている時期だったのです。


私が同行した竹入訪朝団は、この時期を捉えて、野党外交でこの動きを加速したいという狙いがありました。訪朝団のメンバーは、公明党は竹入義勝委員長、正木良明政審会長、黒柳明国際局長などで、公明新聞記者として市川雄一さんも同行、記者団は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、共同通信、TBS、 NHK、中国新聞、それに毎日放送の私と萩原カメラマンの9人でした。


竹入訪朝団は、5月26日に羽田を出発、モスクワに4日間滞在、北朝鮮には5月30日に到着、1週間の北朝鮮滞在でした。いまでも近くて遠い国といわれる北朝鮮ですが、当時は文字通り遠い国でした。空路で入るためにはモスクワを経由しなければならなかったからです。帰りも同じようにモスクワ経由で羽田着の予定で、翌日の午後にピョンヤンを出発する予定でした。


◆金首相の特別機で帰国


帰国予定の朝、竹入委員長と同行記者の団長だった共同通信の田中国夫記者が見舞いに来てくれましたが、この時点ではスケジュールの都合で残らなければならない状況でした。萩原カメラマンとの話し合いの中で、私は残るのも面白い経験かなと話をしましたが、彼は、北朝鮮のいまの姿をいち早く伝えることがわれわれの義務だとして帰ることを主張。


これを踏まえて帰国したい旨を医者に伝えたところ、病院側は「北朝鮮国家の責任だから、けがが全治するまでは帰せない」と主張しました。最終的には、医者の前で普通に歩くことができれば了解との話になりました。まだ足は痛かったのですが、無理して普通に歩き、なんとか退院の許可をもらい、予定通り、この日に帰国することに決まりました。


この後どういう話し合いが行われたのかはわかりませんが、定期便のモスクワ経由でなく、金日成首相(当時)の特別機でハバロフスク経由での帰国となりました。


ソ連との国境を越えるために真夜中のフライト。飛行場とはとても思えない何もない、だだっ広い空き地で、トラックに乗せられたライトを浴びながらの離陸でした。


機内では竹入委員長のはからいで、負傷者ということで金日成首相のためにしつらえられたベッドに私が寝ることに。金日成首相は飛行機が嫌いで、この特別機に乗ったことはないという話だったので、私は貴重な体験をしたことになりました。


予定外のハバロフスクで休憩を取って、その日の午後の日本航空の定期便で東京に。足を引きずりながら空港を出ると、待っていたのは、すぐ大阪へ行ってテレビに出ろ、番組をつくれとの命令でした。


ピョンヤンでのホテルは大同江国際ホテル。当時、北朝鮮から日本への国際電話は2回線だけ。原稿送りはホテル近くの郵便局でのテレックスが中心でした。もちろん単独行動はだめで、必ず通訳が見張り役として同行。系列局のNET(現在のテレビ朝日)の夜ニュースに電話でのリポートを送りましたが、雑音がひどすぎて使えなかったとのことでした。


北朝鮮滞在中の食事は日本食が中心。万寿台での金日成首相の夕食会で食べた日本食は刺身、すし、うなぎのかば焼きでデザートはスイカとイチゴという内容。ごちそうでした。


大阪発の午後のワイドショーに出演して取材したフィルムを使って、電話事情や映画のセットのような市民生活、食事の話など軟らかいネタを中心にリポートをしましたが、いまと違って一般の北朝鮮への関心は全くない時代。


一番〝うけた〟のは、私の髪の毛の話。当時、肩までの長髪だったために、北朝鮮で宇宙人を見るような眼でみられましたが、主婦向けのワイドショーの格好のネタとなりました。もちろん日本でも政治記者で長髪は珍しかったのですが。この番組は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)へのネット番組でした。


帰国して数年後、いずれも自殺ということになっていますが、同行記者の2人が亡くなりました。


すずき・かつとし


1944年生まれ 68年毎日放送入社 69年から東京勤務 官邸 平河 野党 司法クラブなどを経て 東京駐在の報道部長 報道局次長 解説委員などを務めた 現在 放送人政治懇話会事務局長

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