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知性、若さ、夢、先見性ある政治家 私が見たケネディ大統領(松山 幸雄)2013年11月

初老以上のアメリカ人の多くは、1963年11月22日「ケネディ大統領が暗殺された」との第1報を聞いた時、自分がどこで何をしていたかを思い出せる、という。いや、あの悲報に接した時のショックを覚えている人は、日本記者クラブの会員にも、まだたくさんおられるのではないか。


たまたま私は、あの時ワシントン特派員としてケネディ政権をカバーしていた。その上、暗殺の7、8時間後には現場に立って「ダラス発」の記事を書く、という得難い体験をさせてもらっている。あれは長い記者生活の中で、というより、私の全人生の中で、最も忘れ難い出来事だった。今回日本記者クラブからご依頼のあった機会に、当時の時代的背景などを書き留めておきたい。


ケネディが大統領に就任した1961年──というと、くしくもオバマ大統領が生まれた年なのだから、時の流れの早さをあらためて感ずるが──世界は東西冷戦の真っただ中にあった。鉄のカーテン内で着々と力をつけてきたソ連が、スプートニクを打ち上げ、月面にロケットを打ちこみ、ハンガリー暴動を軍事力で制圧するなど、国際政治の舞台で西風が東風に押され気味、との印象を強めていた時代である。


◆米ソ対立下、あらゆる壁に挑戦


そのころフルシチョフ政権下のソ連は、いまのロシアと違い、外部からはその動きがまるでうかがい知れない国だった。「謎に包まれた、神秘の中のミステリー」といわれたクレムリンが、軍事力を背景にどんな無茶をやりだすか、果たしてアメリカの若き新人大統領に、これに適切な対応をする能力があるかどうか…世界は固唾をのんで見守っていた。


フルシチョフの冒険主義の極め付きが、62年秋の「キューバ危機」である。「米国の裏庭」といわれたキューバにソ連が核ミサイルの発射台をひそかに建設し始めた、との情報は、米国を震撼させ、また激怒させた。いまの人たちは、核ミサイルなど原子力潜水艦からいつでもどこからでも撃てるではないか、と考えるだろうが、当時は「地対地ミサイル」が主軸で、ワシントンには「核攻撃の危険を根絶するため、この発射台を先制爆撃すべきだ」との意見が日に日に高まっていた。


ケネディは「ソ連の脅しには断固屈しない」との強硬姿勢を示し、ミサイルの機材を積んだ船がキューバに近づけぬよう海上に「隔離線」を敷いた。もしもソ連船がこれを突破しようとすれば、第3次世界大戦にもなりかねない。あの「一触即発」といった緊張感は、日本にいた人には想像つかないだろう。


結局フルシチョフは、諜報チャンネルを通じて「いま核戦争に持ち込んでも勝ち目はない」と知り、基地建設を断念、「屈辱の敗退」をする。国際政治の潮目は、ここで明らかに変わった。ソ連に対する米国の優位が確立したのである。


ケネディが政治家として優れていたのは、はやる軍部やタカ派議員を抑えきったリーダーシップもさることながら、危機が去った後もいたずらに勝利感に酔うことなく、「忍耐強く平和の道を探ろう」と広く内外に呼びかけた点にあった、と私は思う。暗殺される少し前にワシントンのアメリカン大学で行った有名な「平和の戦略演説」を、ソ連が内部崩壊したいまの時点で読み返すと、いかに彼が優れた「歴史観」「戦略的思考」の持ち主であったかに、あらためて深い感銘を覚える。


「──歴史は、個人間と同様、国家間の敵意は永遠に続かないことを示している。わが好むもの、好まぬものが一見いかに固定しているように見えようとも、時と事態の推移は、しばしば国家と隣人の間の関係に驚くべき変化をもたらすものである。われわれは将来共産圏の内部に建設的な変化が起こって、現在われわれの手に届かないところにある解決策が、手の届くところに来ることを望みながら、忍耐強く平和を探求しなければならない──」。かつてベルリンの壁の前で「私もベルリン市民だ」と演説して西側の人たちを勇気づけてくれた彼に、壁の崩壊する瞬間を本当に見せたかったと思う。


「平和の戦略演説」が象徴するように、ケネディは先見性豊かな知性、理想、夢を持った政治家だった。就任以来、次々に打ち出した「進歩のための同盟」「平和部隊」「宇宙開発」「黒人の地位向上」といった「ニューフロンティア政策」は、国内でも海外でも好感をもって迎え入れられた。彼は「挑戦」「勇気」という言葉が好きで、あらゆる壁に挑戦していった。国民にも「国家が諸君に何をなし得るかを問うなかれ。諸君が国家に何をなし得るかを問いたまえ」(大統領就任演説)と呼びかけた。これに呼応した若い人たちが平和部隊、グリーンベレー、フリーダム・ライダース(人種差別撤廃運動)などに参加して活動したのである。人々があらゆるものを政治で変えられると楽観的に信じた時代だ。


◆幸せの象徴だったケネディ家


私は内外たくさんの政治家に接してきたが、個人として一番魅せられたのは、文句なしにケネディだった。教養、容姿とも歴代大統領の中で最高。演説がうまく、ユーモアのセンスも抜群。品があってお高くとまらず、マッチョであって女性に優しい…日本の政界にもこうした人物が出れば、若い人たちがもっと政治に関心を持つようになるのだが…彼の記者会見に出るたびにそう感じたものである。


日本に対しても、60年安保騒動以来ぎくしゃくしていた日米関係修復のため、まず日本に精通しているライシャワー・ハーバード大教授を駐日大使に任命、次いで、日米貿易経済合同委員会を新設して第1回会議にはラスク国務長官ら5人の閣僚を日本に派遣、さらに弟のロバート・ケネディ司法長官を訪日させるなど、「日本重視」の政策を次々に打ち出した。暗殺されなかったら、遅かれ早かれ大統領自身が来日したであろうことは間違いない。近く駐日大使として着任する長女キャロラインさんは、私には亡きケネディの名代のような気がしてならない。


「キューバ危機」後、間もなく行われた中間選挙で民主党は圧勝したが、これには大統領だけでなく、ジャクリーン夫人や、かわいい盛りのキャロラインちゃん、長男ジョン君の人気も大きく貢献している。


大統領夫妻の好みを反映して、ホワイトハウスのパーティーにはノーベル賞やピュリツァー賞の受賞者、チェロのパブロ・カザルス、詩人のロバート・フロスト、映画のエリア・カザンといった文化人が次々と招かれ、首都ワシントンの雰囲気は、軍人出身のアイゼンハワー大統領の時代とは様変わりした。


冷静なコメントで知られるニューヨークタイムズのジェームス・レストン記者が、珍しく情緒的な筆で「われわれは戦後最もウキウキした気分で平和を味わっている。…この幸福感の原因は、疑いもなく若きケネディ一家に帰せられる」と書いたように、アメリカはケネディ家を中心に幸福の絶頂にあった。


そこに「日本軍の真珠湾攻撃以来」といわれる衝撃的な悲劇が襲ったのである。舞台は暗転する。驚がく、悲嘆、失望、怒り…他の誰が死んでも、あれほどの感情の高まりが米国を覆うことは、もうないであろう。


◆歴史を曲げた犯人は誰?


「ケネディが撃たれた」との至急報をAPから知らされた私は、大統領に同行しそこなった数人の記者、カメラマンと一緒に、ボルチモア空港から特別機でダラスに飛んだ。現場に立って、発砲場所といわれる教科書倉庫6階を見上げた時の背筋の凍る思いは、いまでも鮮明に覚えている。


最終版に「ダラス発」の記事を突っ込みながら「いま自分は歴史の分水嶺に立っているのだな」と武者震いした。実際「ダラスの銃声」がなかったら、その後の大統領の顔ぶれはまるで違ったものになっていたわけだから、確かにあれは歴史の大きな転換点だったといえる。


では歴史をひん曲げた犯人は誰か? 私はその後も5、6回ダラスを訪問する機会があり、そのたびに現場に行ってみたが、どう考えても、逮捕、暗殺されたオズワルド1人の犯行とは思えないでいる。背後にいた共犯、あるいは協力者としてキューバ、ソ連、CIA…ジョンソン副大統領など、当時からいろいろ無責任な説が流されてきたが、私には「軍縮指向」のケネディに不安、反感を抱いた勢力が最重要容疑者であるような気がしてならない。


それはともかく、アメリカは人気の高い元首を一瞬にして失った痛手から、果たして立ち直ることができるだろうか。私は葬儀後しばらくして、東部から中西部、西部、南部を駆け足旅行し「ケネディ暗殺の残したもの」を取材して回った。


確かに全米を覆う悲しみ、虚脱感は予想通り大変なもので、各地で追悼ミサが連日のように行われていた。大学でも「講義をする気にならない」「聴く気にならない」と、しばらく休講するクラスが続出した。「不夜城」ラスベガスが3日間喪に服して休場したのは初めてだという。(同時多発テロの後も閉めなかった)


しかし同時に、「ケネディ神話」の消えるのは意外に早そうだ、との印象も持った。大統領選挙で共和党のニクソン候補を破ったといっても、強引な金権選挙による「紙一重の勝利」であり、もともと「反知性主義派」「ケネディ嫌い」は、南部を中心に大きな勢力を持っているからだ。ケネディ・ファンの中心地ハーバード大でも、パーソンズ教授などは特別講義で「ケネディ人気は長続きしないだろうから、いまのうちに彼の夢を実現するよう政策を急がねばならない」と警告していた。


◆永遠の課題か リーダーの能力と人格


実際問題として、閣僚やブレーンには政策に明るいインテリを集めたとはいうものの、対議会工作が全く不慣れのため、暗殺の時点では政策の具体的成果はほとんど出ていなかった。就任後2年ちょっとなのだから、「プログラム大統領」とか「メニュー大統領」と批判されたのはある程度やむを得ないが、とにかく「偉大なる大統領」への道を歩みだしたとは、まだとてもいえる状況ではなかった。


そして女性の地位が飛躍的に向上した時代になって、彼の生前の「病的」ともいえるほど乱れた女性関係のスキャンダルが、次々に出てきた。


私自身、ホワイトハウス記者団が「いまケネディがホワイトハウスの中で女性と会っている」などと話し合っているのを何度も耳にしているが、当時一流新聞は、大統領の女性スキャンダルをほとんど報じなかった。少なくとも後年、クリントン大統領の女性関係を連日派手に書き立てたのに比べると、いわゆる〝ヘソから下の醜聞〟を政治問題化することは慎んでいた。


昨年、元ホワイトハウス女子研修生が書いてセンセーションを起こした『Once upon a secret』という暴露本を読んでみたが、大統領がホワイトハウスの一室で彼女に関係を迫る場面など、ケネディ・ファンを幻滅させるような好色ぶりである。


もしもキューバ危機の最中、ケネディの女出入りがマスコミや議会で追及されていたら、大統領はリーダーシップを発揮できなかったであろう。そう思うと、老ジャーナリストは複雑な気持ちに襲われる。


指導者が強力であると同時に、人格者であることが望ましいのはもちろんである。しかし私生活に問題のあったケネディは、国のムードを明るくし、未来に希望を抱かせた。また「ウォーターゲート」という犯罪に関係したニクソンは「米中国交回復」という偉業を成し遂げた。


一方、品行方正だったフォード、カーター両大統領は大した仕事をしていない。リーダーとしての能力と人格のどちらに重きを置くか──民主主義政治における永遠の課題であろう。


村山政権時代にコロンビア大学で講演した際、学生たちに大分市にある首相の質素な私宅の写真を見せたところ、誰も興味を示さず、異口同音に「大事なのは、清貧よりも、彼が国民に好かれたか、また彼が何をしたかです──」。


私自身も、長い政治記者生活の末「政治家の偉大さは道徳的な問題とは関係なく、彼の考え方が国民や人類の進歩にプラスになったかどうかで判断すべきだ」(キッシンジャー元米国務長官)といった意見に傾いている。「未完成」「女性問題」というマイナス点を考慮してもなお、私はやはり「ケネディ・ファン」だ。


まつやま・ゆきお

1930年東京生まれ 53年朝日新聞入社 政治部を経て61年ワシントン特派員 71年ニューヨーク支局長 74年アメリカ総局長 本社では論説委員 論説主幹などを歴任 退社後はハーバード大学特別客員研究員 共立女子大学教授を務める 1978年度日本記者クラブ賞受賞 著者に『国際派一代 あるリベラリストの回顧、反省と苦言』『ビフテキと茶碗蒸し─体験的日米文化比較論』『自由と節度─ジャーナリストの見てきたアメリカと日本』など

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