ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

72年「羽田記者クラブ」物語 連続事故、怪鳥飛来…(秋岡 伸彦)2013年3月

 「羽田記者クラブ」の昔語りをお許しいただきたい。戦後の転換点となった1970年代初期の、東京国際空港ハネダが舞台である。空港の情景は常に時代の変化を鋭敏に映し出す。激動する航空界で、羽田記者たちも右往左往した。

◆航空機暴走事故を目撃

 72年5月15日夕。羽田は土砂降りの雨だった。空港ビル3階のクラブ室にいたとき、突然ドーンという鈍い音が腹に響いた。窓外に、滑走中の航空機から、火を吹いたエンジン1基が吹き飛ぶのが見えた。機体は右主翼を引きずりながら滑走路を逸脱して止まった。
 

 航空記者とはいえ、事故を目撃することなどめったにあるものではない。空港は騒然となった。私もカメラを手に走った。全身ずぶ濡れだった。
 

 福岡行き日航DC8型機の暴走事故である。乗客16人が重軽傷を負った。頭に応急の包帯を巻いて、弁解と謝罪を繰り返す若い機長が頼りなく見えたことを思い出す。その機長の離陸操作ミスというのが後の事故調査の結論だった。
 

 それまで日航は長く無事故を誇り、世界一安全な航空会社とさえ言われてきた。この事故が、その後の日航機の連続重大事故の前触れになるとは当時、考えもしなかった。

◆気分は「一城の主」だが…
 

 70年代を象徴する航空機はボーイング747型機、つまりジャンボだ。
 

 太平洋路線に就航して、大量高速輸送時代の幕を開けた。そんな羽田の華やかな旅客ターミナルの喧騒から少し離れて、空港管理の中枢を担うのが空港ビルである。
 

 その3階に記者クラブはあった。とはいえ、通路に沿ってドア1枚の小部屋が並んでいるだけだ。読売を含む報道7社が各1室を賃借、社会部記者がひとりずつ詰めていた。
 

 もう1室、航空管制協会の事務室に寄生して、クラブ室と称していた。ただし、そこは記者たちのたまり場に過ぎず、クラブとしての規約はなく、協定などもありえなかった。
 

 航空事故はなぜか連続して起きる。71年夏、東亜国内航空機墜落、全日空機と自衛隊機の空中衝突が続いた。悲惨な現場取材を経験した私は、そのまま羽田に2年ほど居ついた。
 

 わが部屋では、万年布団の二段ベッドが異臭を放ち、新聞や資料が山積みだった。気分は「一城の主」とはいえ、空港当局、CIQ(税関・入管・検疫)など守備範囲は広く、何より事件、事故に備えるのが仕事だった。
 

 その一方で、黄色い「PRESS」の腕章を巻いて諸外国の賓客、皇室などの「VIPフライト」を取材した。海外旅行の人出も報じた。
 

 航空を専門とする航空記者であり、その実、サツ回り同然の空港記者でもあった。
 

 羽田記者にとって72年夏の羽田はひときわ暑く、せわしなかった。以下、当時の取材メモ帳から─。

◆コンコルドの招待状
 

 日航機の暴走事故から約1カ月後の6月12日、英仏共同開発の超音速旅客機(SST)コンコルドが売り込みデモで羽田に飛来した。
 

 離着陸時の騒音はすさまじかった。「怪鳥、迷惑来日」とは、夕刊社会面のわが記事に付けられた見出しである。遠来の客に失礼だったが、さらに太平洋上のデモ飛行の試乗招待者選びでも、ぎくしゃくした。
 

 英仏側は当初「皇室からもぜひ」と働きかけ、皇太子(現天皇陛下)の試乗を望んだようだ。英国ではエジンバラ公が試乗しているのだが、わが皇室が応じるわけもない。運輸大臣ら招待された閣僚も腰を上げなかった。
 

 報道各社への招待状も会長、社長ら幹部あてだった。西欧大国の尊大ぶりに辟易しながら、「社長の代理」で試乗したのが、主に私たち羽田記者だったことは言うまでもない。
 

 お陰で、マッハ2・04の世界を体験できた。航空記者として、SSTの意義、将来性も評価した原稿もきちんと書いておこう。そう考えた私はコンコルド離日の前日、6月14日深夜、大手町の本社に上がった。
 

 日付は15日になり、夕刊用の記事の準備にとりかかったとき、編集局にニュース速報が流れた。「ニューデリー郊外で、日航機が墜落した模様」─。ただちに羽田へ取って返した。
 

 日航機事故の記事で埋まった15日夕刊の片隅に「・騒音怪鳥・離日」のベタ記事が載った。
 

 コンコルド評価の原稿は結局書き損なった。つまり「書かなかった話」である。

◆日航オペセンの「裏会見」
 

 重大事故のたびに羽田は修羅場と化す。ニューデリーの日航機墜落事故(死者90人)では、日航オペレーションセンター(通称オペセン)に詰め掛けた大報道陣を相手に、航空の専門用語が頻出する日航会見はときに空転、混乱した。
 

 時間を空費して、新聞の締め切りに間に合わなくなる。白状すれば、そんなとき、羽田の記者たちだけが別室で日航側に詳しい報告を求めた。いわば「裏会見」だったが、事情はご理解いただきたい。
 

 事故原因を巡って、「幽霊電波で異常降下?」とは、私の原稿(6月29日朝刊社会面)の見出しだった。航空機を電波で誘導する空港側の装置(ILS=計器着陸装置)が不調で、不安定な電波で日航機を誤って誘導したという内容だ。
 

 そう主張する日航側が記事の取材源だったことは言うまでもない。インド政府がこれを否定、パイロット・ミスを示唆する結論をまとめたのは約1年後だった。
 

 国境を超えた事故原因究明は多く国益の綱引きになる。無論、航空機メーカー、航空会社の損得も絡む。そんな厳しい現実を羽田記者は実感することになる。
 


 この年、日航機は9月に韓国・金浦空港で暴走、ボンベイで誤着陸、そして11月モスクワ空港で墜落惨事(死者62人)と続く。日航の安全神話は土台から崩壊した。

◆「エンマ帖」と日の丸
 

 事故関連の取材が続くなか、7月23日、米国からエアバス2機種が飛来した。「DC10」と「L1011」の売り込みデモで、華やかな競演がロッキード事件に関わる1コマだったことを後に知ることになる。
 

 もうひとつ余談を。8月12日、日航、全日空機が羽田─上海間のテスト飛行をしたときのことである。
 

 9月の日中国交正常化を控えて、戦後初の乗り入れだった。羽田を飛び立つ情景の雑観記事で、「両機の・日の丸・が強い真夏の日ざしを受けてきらめいた」などと書いた。
 

 この日の各紙記事を「日中ブームの異様な興奮」と批判したのが文藝春秋10月号の「新聞エンマ帖」だった。わが記事については、「記者が興奮のあまり、ついフデをすべらせた」として、民間機に・日の丸・はついていないと記した。
 

 どっこい、両機の翼に・日の丸・は描かれていた。法的な規制ではなく、慣例でそうなっている。わが抗議に、同誌11月号「エンマ帖」には「・日の丸・がついていないとしたのは誤り」との〈訂正〉が載った。
 

 あの欄の訂正は珍しいのではないか。ただし、あのころの「日中ブーム」は少しはしゃぎすぎだったような気がしないでもない。
 

 中国からのパンダ到来で、羽田がまた大騒ぎになったのは、この年11月のことである。
 


 

 航空界はその後も多事多端だった。
 

 日航ハイジャック事件、ロッキード事件、波乱の成田開港などを経て、85年8月の「御巣鷹の悲劇」日航ジャンボ機墜落事故を、私は社会部デスクとして担当した。雨の羽田で日航機暴走事故を目撃してから13年余が経っていた。
 

 「羽田記者クラブ」は今も、同空港内にある。しかし、国際線のほとんどが成田に移ったこともあって、読売などは記者を常駐させていないという。
 

多分それでいい。あのクラブは忙しくならないほうがいい。


あきおか・のぶひこ 1938年生まれ 62年読売新聞入社 社会部記者 論説委員 コラム「編集手帳」担当 著書に『読売コラムニストの13年』など 日本エッセイスト・クラブ事務局長
 

ページのTOPへ