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宰相と新聞記者の関係 ──わが懺悔録(早房 長治)2013年4月

総理大臣は「天下人」であるが、マスコミの評判に神経を使い、ベテラン政治記者としばしば接触する人が多い。一方、新聞記者は、当然のことながら、総理との面会を渇望する。問題は宰相とジャーナリストの密接な関係が、政治をよくすることに役立っているか、公正な報道に寄与しているかである。恥ずかしながら、私自身の例を供して考えてみたい。


◆大平総理と一般消費税導入


大平正芳・元総理の蔵相(現在の財務相)・自民党幹事長時代(74年7月~78年12月)、私の「朝駆け夜回り」の主な対象は、東京・瀬田の大平邸であった。私は政治記者ではない。ヒラの経済記者であったが、大平さんは嫌な顔をせず、受け入れてくれた。


当時、ほとんどの大臣クラスの政治家がそうであったように、大平さんも夜回りの際は、平気で嘘をつくが、朝駆けで朝食を共にしている時は、不思議なほど率直に本当のことを明かしてくれた。そのため、100回以上、大平邸で朝食を食べた年もある。


78年12月、総理に就任後は、夜、台所口から入り、話を聞いた後、玄関脇の総理番記者小屋に誰もいなくなってから玄関を出た。


大平内閣発足から2週間ほどたった同月下旬のことだったと思う。ソファで雑誌を手にしていた大平さんが急に座り直して、私に正対して問いかけた。厳しい表情だった。「欧州の付加価値税を知っているだろう。日本に一般消費税として導入しようと考えている。君の意見はどうだ」


当時、私は一般論として増税に反対であった。しかし、大平さんが蔵相として赤字国債を第2次大戦後初めて発行し、78年度には4兆5千億円超に達していることに深い罪悪感を抱いていることを知っていた。組閣早々の発言に宰相としての強い決意を感じた。「総理としてやるべきだと決意しておられるのなら、おやりになればいいでしょう」


大平総理は新年、伊勢参宮の記者会見で増税に言及し、1月5日の閣議で、総選挙で国民の審判を受けた後、80年度から一般消費税を導入することを決定した。これに対して、まず野党、消費者団体、財界などから反対の大合唱が起き、秋に想定された総選挙が近づくにつれて、自民党内からも反対の火の手が挙がった。


9月17日からの選挙戦でも大平さんは主張を変えなかった。しかし、終盤戦に入って、大平派幹部からも「増税では選挙は戦えない」という声が出始めると、さすがの大平さんも増税を口にすることが少なくなってきた。私は女婿の森田一秘書官に「増税の主張を変えてはいけない。変えたら負けますよ」と繰り返し忠告した。しかし、森田さんの答えはもっぱら「早房さんが直接、総理にいってくれませんか」。私は何回か直接、忠告をしかけたが、苦悩する大平さんの顔を見ると、最後までいい出すことができなかった。


大平総理は投票日の10日前、一般消費税の導入撤回を宣言し、選挙に敗れた。前年12月の大平さんの問いかけに「国民の説得に十分の時間を取らないままの増税は成功しません」と答えず、選挙直前に「増税の主張を変えてはいけません」と、なぜ直接忠告しなかったのか。その後の福田赳夫・元総理との40日抗争、翌80年6月の死などを振り返ると、今日でも慙愧の念は消えない。


◆宮沢総理と公的資金注入


政界随一のインテリといわれた宮沢喜一・元総理とは2007年に亡くなるまで約30年間、多くの問題について話し合った。91年11月から93年8月まで、総理在任中も様々な場所で会ったり、電話で話す機会があった。


就任直後の宮沢総理が直面したのは、破綻した住宅金融専門会社7社をどのように処理するかであった。宮沢さんは親しかった三重野康・日銀総裁との協議の上、公的資金による金融機関の不良債権問題の早期解決を92年8月下旬、いったん決断したことは間違いない。しかし、野党やマスコミに加えて自民党の一部の国会議員が反対ののろしを上げると、決断が揺るぎ始めた。


9月初旬、三重野さんと面会すると、いつもの彼と違って、いら立ちを隠そうともせずにまくしたてた。「公的資金といっても、税金を使うには国会の承認が必要であるから面倒です。そこで、日銀から融資する形をとることで宮沢さんと合意しました。それなのに、総理は今になって合意を覆し、公的資金注入の決定を先送りしようといい出したのです。そんなことをしたら、住専問題の早期解決ができないだけでなく、近い将来起きるであろう、もっと大きな金融機関の不良債権問題解決にも悪影響を与えます。総理はここでビビッてはいけません。そのことを早房さんからも強くいってもらえませんか」


私も三重野さんと同様、宮沢さんの欠点であるインテリの弱気が判断を狂わせていると考えた。住専問題解決のために必要な公的資金は約6800億円に過ぎない。野党やマスコミはこの程度の額の公的資金注入を大問題だというが、金融機関の不良債権問題をこじらせた場合に起きる注入必要額、数十兆円に比べれば、たかが知れている。「日本経済の将来のためにも、宮沢内閣のためにも、いま、公的資金注入に踏み切らなければならない。そのことを、宮沢さんに再度、決意してもらわなければならない」と、私はダイヤルを回した。


宮沢さんはインテリの弱気という性格を持つ半面、自分が決めたことに正面から反対されると頑固に守ろうする性癖があった。それを熟知している私は、電話線の向こうにいる宮沢さんに腰の引けたアドバイスしかできなかった。宮沢さんの答えは「早房さんのご忠告を参考にします。しかし、状況は複雑なんですよねえ」という冷ややかなものであった。


あの時、私が強いアドバイスをする勇気を持ち、宮沢さんが一度決定した政策を考え直す柔軟さを備えていたら、「失われた20年」も、宮沢さんが「平成の徳川慶喜」と呼ばれることもなかったかもしれない。そう考えると、自分の勇気のなさが、つくづく悔やまれる。


◆細川総理と福祉目的税


細川護煕・元総理は政界に打って出る前、朝日新聞社会部の記者であったので、その頃からの旧知の仲である。熊本県知事時代にはテニス仲間でもあった。


細川さんは92年5月、日本新党を立党、同年の参院選と93年の衆院選で躍進し、同年8月には当時、新生党代表だった小沢一郎氏と連携して非自民8党連立の細川内閣を発足させた。「あれよ、あれよ」というのが私の実感であったが、細川総理の行動にかなりの危うさを覚えながら、応援しようという気持ちが強まっていったのも事実である。


私が「応援の仕方を間違った」と痛感したのは94年2月3日未明である。その時、大阪のホテルで寝入ったばかりの私に、東京経済部デスクが「細川首相がいま、消費税を福祉目的税に改め、税率を3%から7%に引き上げると発表しました」と連絡してきたのである。


福祉目的税については斉藤次郎・大蔵省事務次官が策動しており、小沢氏に働きかけていることは耳にしていたが、消費税を突然引き上げるような無謀な案に細川総理が乗ることは絶対ないと信じていた。それだけに、腹の底から怒りがこみあげてきて、夜が明けるまで一睡もできなかった。午前7時半過ぎ、首相公邸の細川総理に電話し、「君はとんでもないことをやった。直ちに改めるに憚るはなしだ」と怒鳴ったと記憶している。


細川さんは頭がよく、スマートな男である。だが、中央政治家としては経験不足で、狡猾な大蔵官僚にあっさり騙されてしまった。私は目先の政策で彼に協力するより、税金とは何かの基本を彼が理解するように応援すべきだったのである。


宰相に接近する新聞記者の中には、フィクサーを目指す人も、単に特ダネを狙う人もいる。どちらでも構わない。しかし、細川さんと私の例のように、権力との緊張関係をいささかなりとも失ってはいけない。また、宰相にアドバイスする前に、もっともっと政策の勉強に励むべきである。



はやぶさ・ながはる

1938年生まれ 61年朝日新聞入社 経済部次長 論説委員 編集委員 現在 「挑戦するシニア」代表理事 著書に『監査法人を叱る男 トーマツ創業者・富田岩芳の経営思想』など

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