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第10回(フィンランド・デンマーク)エネルギー政策(2013年1月) の記事一覧に戻る

思考停止にならぬよう(木村 和彦)2013年1月

 

青森県六ケ所村には高レベル放射性廃棄物、いわゆる「核のゴミ」が保管されている。近くにいた人は20秒足らずで死に至るとされ、放射線レベルが自然界と同じ程度になるまで10万年かかるという。

 

これは豊かな生活を得るために、われわれ(抵抗を覚える方もいると思うが)が選択したエルギーの副産物だ。将来世代に対し、最終処分場を決め、安全に後始末する責務があるが、その場所がなかなか決まらない。

 

「私たちは原発の恩恵を受けてきた。ならば廃棄物にも責任を負わないとならない」。最終処分場の受け入れを決めたフィンランドの自治体のトップは、決断は当然とばかりに言う。

 

この「責任」を日本に当てはめるなら、交付金で潤ってきた原子力施設の立地自治体だけにとどまらない。電力消費地である大都市圏も「安価で安定供給」という形で恩恵を被ってきた。つまり、核のゴミの処分は国や電力事業者はもちろん、国民全体で共有すべき問題なのだ。

 

昨夏、将来のエネルギー政策を考える国民的議論が行われた。しかし、原発比率をどうするかに関心が集中してしまい、最終処分に関する意見交換は低調に終わった。核燃料サイクルを議論から切り離すという、政府の問題提起の方法に落ち度があったとは言え、核のゴミを抱える青森県に住む者として、もどかしさを感じた。

 

フィンランドが世界に先駆けて最終処分場を決められた要因として▷地震がなく岩盤が強固▷規制当局に対する絶大な信頼―が挙げられる。地震国であり、「安全神話」が崩壊した日本で本当に選定できるのか、不安が付きまとう。

 

だが、決して逃げられない課題である。


フィンランドの最終処分場をテーマにしたドキュメンタリー映画「100、000年後の安全」のマドセン監督はこう言った。「今、原発がすべて止まっても既にある核のゴミは処分しなくてはならない。そのことを分かってほしい」。思考停止に陥らず、この問題を発信し続けたい。

 

(デーリー東北新聞社東京支社編集部長)

 
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