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東西関係の基底に生き続けるヘルシンキ精神とロシア主義(植田 樹)2013年2月

私がモスクワに特派員として赴任したのは39年前の1974年のことだった。東西冷戦の時代だった。長時間の厳密な入国手続きの後、空港を出るとまだ9月末だというのに早くも雪が散らついていた。外気の湿った寒さと東側陣営の司令塔の幕営に一歩足を踏み入れたような緊張感にひしと身が引き締まった。


◆忘れ難い全欧安保協力会議


 翌年、そうした国際環境に一つの転機が訪れた。それは新米特派員にとっては忘れ難い戦後史の一大事件だった。気の遠くなるような長い準備交渉を経て1975年7月末、フィンランドの首都ヘルシンキで全ヨーロッパ安全保障協力会議の首脳会議が開催された。アルバニアを除く東西ヨーロッパの全ての国とアメリカ、カナダを含む35カ国の首脳が一堂に会した。
 各国の錯綜する利害や思惑を取材するためほとんどのマス・メディアがアメリカ、ヨーロッパ、それにソビエトから各特派員を派遣する大掛かりな取材体制をとった。ソビエト側の取材を担当することになった新米特派員の私にとってはベテラン諸先輩の取材ぶりを学ぶ好機ともなった。
 ヘルシンキ会議はナポレオン戦争後のヨーロッパの新秩序を定めた1814年のウィーン列国会議に匹敵する歴史的な国際会議だった。最終日に各国首脳が調印した「ヘルシンキ宣言」と呼ばれた合意文書には「ヨーロッパにおける第二次大戦後の国境線の不可侵と領土保全、内政不干渉、人権と諸々の自由の尊重」などの原則が盛り込まれた。
 ソビエトは人権と諸自由の尊重の原則には一貫して強く抵抗したが、国境線の不可侵と領土保全の原則と引き換え、しかも内政不干渉の原則を条件として最終的に妥協したのだった。ブレジネフ書記長は調印後に「いかなる国も他国民にその内政運営の方法を押し付けるべきではない。内政問題を解決する主権はそれぞれの国の国民にある」と釘を刺した。
 メディアによっては「3日間にわたる緊張緩和の祭典」「人類史上の小さな一道標」との称賛や「偽善にみちた紙切れ」などといった批判もあって評価はまちまちだった。
 その後、東西間ではしばらくの間「デタント(緊張緩和)」という言葉が祈りをこめた呪文のように飛び交った。呪文は効き目がなかったわけでもなかった。ユダヤ人の出国許可と引き換えに米国がソ連向けの穀物輸出を認可するというまるで人質取引のような外交がしばらくの間、繰り返された。


◆薄氷を踏んでのサハロフ博士インタビュー


 私はヘルシンキ宣言は「偽善にみちた紙切れ」という評価には必ずしもくみしなかったが、ソ連国内では相変わらず・反体制派・に対する弾圧が続き・サミズダート(自家=地下出版)・という言葉が西側メディアの流行語になった。翌76年からモスクワはじめソ連領内のいくつかの都市で特に人権尊重と自由の実現をめざす民間人の「ヘルシンキ合意監視グループ」が旗揚げした。しかし、そのメンバーの多くが次々に・反体制派・として逮捕されていった。
 ヘルシンキ会議から2カ月後の1975年10月9日、ソビエトの科学アカデミー会員アンドレイ・サハロフ博士にノーベル平和賞の授賞が発表された。・ソビエトの水爆の父・と言われた博士は当時、国内の人権擁護運動の先頭に立ちブレジネフ書記長に民主化の促進を求める公開書簡を送るなど勇気ある活動を粘り強く続けていた。
 当然ながらモスクワ特派員としては博士の活動の軌跡だけでなくぜひとも受賞談話をとらなければならない。博士はNHKの支局のある建物から数ブロック離れたサドーヴォ環状線に面したアパートに住んでいた。車で行けば10分もかからない至近距離だったが、インタビューは容易ではなかった。
 博士は反体制派の頭目として日常的にKGB(国家保安委員会)の監視下にあった。ましてノーベル賞の受賞が決まり・時の人・になったからには監視は一層厳しくなっているはずだった。白状するが、私は博士に会いに行くのがこわかった。しかし、仕事である。逃げるわけにはいかなかった。
 博士の電話はもちろん、支局の電話も盗聴されている可能性があったから面会をあらかじめ求めることはせず、ぶっつけ本番で出かけることにした。私の車には日本の特派員であることを示すナンバー・プレートがついている。いずれ身元がばれるにしてもしばらくは時間を稼ぐ必要があった。私は遠回りして小さな路地をいくつもめぐってから離れた場所に車を置いて徒歩で博士のアパートを訪ねた。
 アパートの入り口には人目に見える形ではその筋の人影はなかった。博士はおびただしい量の本の山に囲まれて机に向かっていた。博士はいかにも学者らしく物静かに一語一語言葉を選びながら「自分の受賞が国内で拘束されている民主化運動の活動家たちにとって役立つことを願う」と語った。応答の中に個人的な受賞の喜びとか笑顔が全くなかったことが強く印象に残っている。


◆暗号名は・佐藤さん・


 帰りも遠回りしていくつもの路地をめぐって支局に戻った。東京の外信部に電話をすると、受けの当番はロシア語のできる記者だった。私は彼に「佐藤さんとインタビューしてきた。これからまず佐藤さんの声を流すので録音テープを回してくれ。原稿はその後で送る」と言った。こうしてインタビューの録音と原稿を無事に東京に送ることができた。
 サハロフはロシア語の砂糖(サーハル)を意味する。砂糖は佐藤と同音である。佐藤=砂糖=サハロフ博士という一種の暗号になる。国際電話で最初からサハロフと言葉に出せば途中で通話は切断されて肉声を送ることができなくなるのは目に見えていたのだ。当時はクレムリン情報の会話でも常に要人の名は伏せて一種の暗号で呼んでいた。
 結局、博士は出国を許可されずオスロでの授賞式には出席できなかった。当局は海外で高名な彼を投獄もできず、さりとて作家ソルジェニツインの先例のように国外追放することもできなかった。国内流刑にして外国人立ち入り禁止地域の地方都市に閉じ込めた。彼はゴルバチョフ書記長によって呼び戻されるまでその地で外部世界との接触を絶たれた。
 当時は反体制派と接触した外国人特派員は様々な嫌がらせや別件逮捕などで不本意な帰国を余儀なくされる時代だった。私は幸いにして5年の任期を全うして無事帰国できた。帰国便に搭乗した時の深い安堵感は当時のモスクワ勤務の体験者でなければ到底、理解し難いに違いない。
 ソ連崩壊後の90年代に私は流刑の町を訪れた。博士が過ごした家は白い漆喰塗りの質素な一軒家だった。窓辺に誰が生けたのか素朴な野の花が空き瓶に一輪さしてあった。ロシアの良心的知識人の伝統を貫き通した博士への地元の人々の敬愛の気持ちをくみ取って私の心は安らいだ。


◆らせん状の時を重ねて


 個人も民族も絶え間なく変化しながら、しかも変わらぬものを内包してらせん状の時間の歴史を重ねる。
 プーチン大統領は昨年12月の教書で人権問題について「ロシアは独自の民主主義の基準に従う。いかなる内政干渉も受け容れない」と述べた。そして、米国の対ロ人権制裁法に対抗し「対米養子縁組禁止法」に署名した。ヘルシンキ宣言もロシア主義も過現未のらせんの時を貫いて東西関係の基底に生き続ける。

 「ヨーロッパはロシアを自分たちの鋳型にはめこむことができないことを知っている。だからこそ我々をこれほどまでに憎むのだ」
 「ロシアがヨーロッパの一員であろうとするなら我々も全てのヨーロッパ人が歩んだ道を歩まなければならない」─どち
  らも19世紀の帝政ロシアの知識人の言葉である。



うえだ・しげる
1940年生まれ 64年NHK入局モスクワ ニューデリー特派員解説委員 現在 くらしき作陽大学非常勤講師(ロシア史) 

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