ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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日中40年と記者交換  残された「小異」は今も(富澤 秀機)2012年10月

日中国交回復の実現を公約に掲げた田中角栄首相が晴れて訪中に踏み切る直前の1972(昭和47)年9月18日。私たち日本人記者は北京・人民大会堂の一室で行われた周恩来中国首相と小坂善太郎自民党日中国交正常化協議会会長の緊迫したやりとりに耳をそばだてていた。この日は奇しくも41年前に満州事変が勃発した日である。


「皆さんは非常に興味ある日に来られた。歴史を変えたと言える。中国7億余の民が訪中を歓迎していると田中先生にぜひ伝えてほしい」。周首相は「ここに同席している記者団が伝えるでしょう」と応じた小坂氏の声を聞くなり、部屋の後方で一部始終を取材していた同行記者の方へわざわざ顔を向け直し、「日本の皆さんに周がこう言っていたと伝えてください」と念を押してみせた。


当時の北京は空気が清く澄み、秋の空はどこまでも高く青かった。だが、夜は街灯も少なく漆黒の世界に一変、自動車の洪水とネオン眩い今の姿からは想像できないような自然のエコ都市そのもの。東京との電話回線は2本だけで、極めてつながりにくかった。すべて国際電話局を通じての申し込みが必要で、たまにつながればラッキーといった有様。そこで我々はタイプライターで打ったローマ字の原稿を片手に、深夜の天安門前を宿舎の民族飯店から小1時間ほどかけてトボトボ電報局へ。暗い北京の街中を何度行ったり来たりしただろうか。仕事とはいえ、その時ばかりは心細さが身に染みた。


それからちょうど1週間後の9月25日。全ての地ならしが終わって、ついにハラを括った田中首相は大平外相、二階堂官房長官、50人を超す政府職員、29社・80人(一部は別便)の大報道陣を伴って日航特別機で秋天の北京空港へ。周首相との4回の首脳会談で日本と中国は戦後27年の断絶に終止符を打ち、29日に共同声明に調印した。ニクソン・ショックで先を越された米国に、日本が猛スピードで追いつき一気に追い越した瞬間である。大仕事を終えた田中首相は特別機が上海空港を飛びたって1時間ほどしたころ、大平外相に向かって「オイ、生きて帰れたなぁ」(大平正芳回想録)としみじみ語りかけたという。


●正常化へ向け記者交換が実現


日中間で常駐記者の交換が始まったのは、これより8年遡って1964(昭和39)年のことである。日本は先進国の仲間入りし、秋には東京五輪の開催を目前に控えていたし、中国は経済困難を辛くも克服し、対外関係を積極化し始めていた。


正常化に向けた両国間の相互理解を深めるため特派員を交換できるかどうか、について、63年には事態打開の糸口が見え始め(孫平化「私の履歴書」)、翌64年4月19日、自民党の長老、松村謙三氏が古井喜実、田川誠一両代議士らを伴って3回目の訪中を果たした際にようやく実現にこぎ着けた。一行はこの時、高齢の松村氏の健康を考慮して門司港から玄海丸という名の2千トンの貨物船で渤海湾の秦皇島に直行、北京に丸1週間滞在した。


松村氏と親しかった日経新聞の新井明政治部長(元社長、第6代日本記者クラブ理事長)を記者団長に7社の記者が同行しているが、松村氏は廖承志氏との間でLТ(廖承志、高碕達之助両氏のかしら文字)連絡事務所の相互設置と常駐記者の交換について合意、取り決め事項を合意メモとして取り交わした。特派員を常駐させたからといって共産国のことだし、国交のない関係だから、もちろん取材や報道には制限がある。しかし、「日本人記者から中国の状況が報道され、日本の実情が中国に伝えられれば、国交正常化へ向けて相互理解に大きな意義をもつ」(古井喜実著『日中18年』)と期待された。


かねて待望の「日中記者協定」(正式名は「日中双方の記者交換に関するメモ」)に基づいて9月29日、日本から9社(朝日、毎日、読売、日経、産経、西日本、共同、NHK、東京放送)9人の常駐記者が赴任、劉徳有新華社記者ら中国記者団7人も入れ替わりに来日した。いまではごく当たり前のこととはいえ、“法的に戦争状態”に置かれていた当時としては画期的な出来事であった。


●文化大革命で紆余曲折


ところが、それから間もなく1966(昭和41)年夏には紅衛兵運動を機にプロレタリア文化大革命が始まり、67年9月10日、毎日、産経、西日本3紙の北京特派員が国外追放となった。さらに読売、NHK、東京放送の記者は常駐資格を取り消され、残ったのは朝日、共同、日経の3社のみ。68年2月からのLТ交渉は難航を重ね、その中で取り仕切られてきた記者交換協定では記者枠が5社5人に圧縮修正され、中国を敵視しないなどの政治3原則の順守が主柱となった。


6月7日には鮫島敬治日経特派員(第9代日本記者クラブ理事長)がスパイ容疑(1977年に名誉回復)をかけられて逮捕。拘留は1年半に及び、翌1969(昭和44)年12月17日になってやっと釈放された。


文化大革命は1966年に毛沢東中国共産党主席が発動した政治運動。実態は劉少奇国家主席らから党の実権を奪い返す権力闘争に他ならなかったが、青少年を紅衛兵として動員したことで残酷さを極めた。狂気と恐怖の10年間にわたる迫害・犠牲者は一千万人とも二千万人にのぼったとも言われている。


国交正常化に伴い記者交換協定はその後、実務的な政府間協定へと移行した。さらに2006(平成18)年の改定により、記者枠も撤廃された。また海運、貿易、航空、漁業の諸協定が締結され、残る最大の懸案とされた平和友好条約は78(昭和53)年8月、ようやくまとまった。秋には鄧小平副首相が来日し10月23日、首相官邸での批准書交換に立ち会った。これにより両国は条約に裏付けられた真の友好的隣国になったわけで、ご満悦の福田赳夫首相は「国交正常化で架けられた木の橋が鉄橋になった」とその意義を分かりやすく説明して見せた。


●将来も覇権を求めず?


だが、国交正常化から40年、周首相が小坂氏に「存小異、求大同(小異を残して大同につく)」と呼びかけた“小異”はタナ上げされ、今また、あたかも“大異”であるかのような騒動にもなっている。平和条約交渉に携わった田島高志外務省中国課長(当時)によれば、鄧小平副首相は園田外相に反覇権条項の必要性を4点に分けて力説。ソ連を覇権主義と批判する一方で、「反覇権条項は中国をも拘束する。中国は将来強大になっても第3世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきである」と述べたという。


この発言を単に同条項を日本に受け入れさせんがための方便だったとみるのは容易である。他方、言葉の通りに、外国の帝国主義に苦しめられ貧困を強いられた中国の心底からにじみ出た発想だったとすれば、将来の可能性をも考えた自戒の哲学だったということになる。


中国が世界第2位の経済大国となり、日中関係が不惑の年を迎えた現在、国交正常化の精神を語れる関係者はほとんどこの世を去った。小異はどこまでいっても小異、日中両国民の子々孫々にわたる善隣友好こそが大切と考えた正常化当時の指導者達の哲学と覚悟のほどを、我々は忘れてはなるまい。





とみざわ ひでき 1942年生まれ 67年日本経済新聞社入社 ワシントン特派員 政治部長 大阪本社編集局長などを経て 98年取締役 2001年常務取締役 03年テレビ大阪社長 07年会長 現在 日本経済新聞社客員・テレビ大阪顧問



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