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大平さんと駆け出し記者(田勢 康弘)2012年8月

幻の「大スクープ」

42年も新聞記者をしていたので、ちょっと自慢したいようなスクープのひとつやふたつないわけではない。でも、読まされる側からすれば手柄話ほど鼻白むものもない。だから、失敗した話を書く。失敗も失敗、大失敗、いやそれよりも「大誤報」というべきものだろう。


1976(昭和51)年5月19日付の日本経済新聞1面のトップ記事に「椎名副総裁・大平蔵相 今国会後辞任の意向」という記事(写真)が載っている。私の「大スクープ」になるはずの記事であった。


話はその2、3日前にさかのぼる。


自民党大平派担当だった私は、いつものように日曜日の朝も午前6時ごろに、世田谷区瀬田の大平正芳蔵相邸に着いた。いわゆる朝駆けといわれるもので、朝駆けを休んだ記憶はほとんどない。その日曜日、大平さんは茅ヶ崎のスリーハンドレッドというゴルフ場に行くことになっていた。


大平邸の台所で迎えの大臣車が来るのを待っていたが、なかなか来ない。他社の朝駆け組も来ない。「大臣、私のハイヤーに乗って行きませんか。ゴルフのスタートに遅れないように」と誘ってみた。「そうか、そうするか」ということで、私のハイヤーに大臣が警備のSPさんも連れずに乗り込んだ。びっくりしたのは運転手さんで、後ろから見ても緊張しまくっていた。


それからはゴルフ場まで、大臣を“独占”。ゴルフ場からの帰りは大臣車に私が乗り込んで、これもまた独占。私邸に到着したら「まあ、あがれ」といつものお気に入りの台所の食卓へ。


●飛び出した三木降ろしシナリオ


私も大平さんと同じく下戸なので、二人で焼き芋をほおばりながら、政局の話をした。


そのころは三木武夫内閣で、福田赳夫さんが副総理、椎名悦三郎さんが自民党副総裁だった。田中角栄首相が金脈問題で辞任したあと、後継者争いが激化した。福田、大平、三木、中曽根康弘。それ以外にも保利茂、灘尾弘吉(のちにともに衆院議長)という名前もあがっていた。結局、椎名副総裁が調整役をつとめ、最終的にはいわゆる「椎名工作」で、本命視されていなかった「三木武夫」総裁となる。


大平さんは椎名工作に疑念をいだいており「行司がまわしをつけている」と椎名副総裁のねらいは調停不調による「椎名」暫定政権ではないかと皮肉った。この話が政界に広まり、椎名・大平関係は険悪なものとなった。


三木政権誕生後、ロッキード事件が発覚する。「田中角栄逮捕」は戦後政治史を書き換えるほどの大事件だった。田中逮捕で三木首相の国民的人気は上昇、指名した椎名副総裁も、はしゃぎ過ぎだと次第に三木離れしていった。問題はしぶとい三木をいかにして退陣に追い込むかである。そういう状況での大平邸での出来事であった。


●「話すな」と言われても


着物に着替えた大平さんは台所の食卓で裾を広げながら、こう言った。


「おい、田勢。禊、という言葉を知っているか」「汚れを落とし、身を清めることですね」「そうだ。それをこれからやる」「えっ?」「いいか、これから話すことは絶対に内緒だぞ。部長にもデスクにも言うなよ。もちろん、○○にも内緒だ」と大平派担当で大平さんと親しい先輩記者の名前をあげた。それから怒ったような顔で語り始めた。


「田中逮捕で自民党は国民に詫びなければいかん。贖罪だ。禊を形で示さなければならない。まず、おれが大蔵大臣を辞める」「……」「その上で椎名さんも副総裁をやめる。もう話はついている。最後に福田さんが副総理を辞める。その上で三木総理に退陣を説得する。すなわち、みんなで身を引いて自民党は一から出直すのだ」


大平さんは割り箸の先を残りのお茶で濡らし、食卓に「禊」と何度も書いた。


●朝駆け行けずに悶々と


恐ろしいことを聞いてしまった。聞かない方が幸せだった。この秘密を守れるかどうか。翌日の月曜日の朝、初めて朝駆けに行かなかった。夜回りも休んだ。大平さんと顔を合わすのが怖かった。


記憶では1週間ぐらい悩み続けたように思っていたが、掲載日を見ると、月曜日と火曜日の朝駆け、夜回りを休んだだけで、火曜日組の朝刊最終版に叩き込んでいる。約束は守らなければならない、と思いながら、同じ話を大平さんは他社のだれかにも話してしまうのではないかという不安でいっぱいになった。


思い切って○○さんに打ち明け、スクープとして報道することになった。○○さんは「辞任へ」としたいという私の主張を押しとどめ「人間、気が変わることもあるから」と「辞任の意向」という表現にした。


これで政界は大騒ぎになる、はずだった。各社の記者たちは、あわてふためく、はずだった。早朝、大蔵省の秘書官室から電話がきた。「大臣ができるだけ早くこちらへおいで願いたい、とのことです」。ああ、叱られる。約束を破ってしまったのだから仕方がない。すぐに大蔵省大臣室へ飛び込んだ。


●布団の中の涙 生身の姿に親近感


広い大臣室の隅っこにある鏡の前で、しゃぼんをいっぱいつけて大平さんはひげを剃っていた。


「おお、来たか」


怒ってはいなかった。「呼びつけて悪かったな。ところで、だ。すまんけれども、君のご意向にそえないことになった。あれからちと事情が変わってのう」


福田副総理が反対し、どうやら辞任しないことになったということらしい。頭が真っ白になった。呆然と立ちすくんでいる私に大平さんはこう言った。


「それじゃ君も困るだろう。この話は本当だったのだから、おれが説明してやってもいい、だれに説明しようか。政治部長か、それとも社長か」。ふと我に返って「結構です。後始末は自分でやります」「そうか、わかった。今夜また来いよ」


大平さんは嫌な顔ひとつ見せなかった。そればかりか、誤報でないと説明しようか、とまで言う。結局、○○さんのおかげで「意向」をつけたことから、いわゆる訂正記事は出さないことになった。いまにして思えば、この「誤報」が三木降ろしの号砲だったのだ。


これをきっかけに駆け出しのような若い記者を不憫に思ってくれたのか、大平さんは酒の飲めない私のために今川焼や焼き芋を買ってきてくれた。もっとも奥さんによると「自分が食べたいからよ」ということらしかったが。


夜回りで記者たちが引き上げた後、一人で大平邸に戻ることもあった。布団の中で壁のほうに顔を向け、横たわっている大平さんの肩が揺れていることがあった。どうやら泣いているらしい。夜中の2時頃だった。静かになったので帰ろうとすると「まだ早いだろ」と言う。政治家もやはり同じ人間なんだ、と知らされた。



たせ・やすひろ 1944年生まれ

 69年日本経済新聞入社 政治部 ワシントン支局長 編集委員 論説委員 コラムニストなど 1996年度日本記者クラブ賞受賞 著書に『国家と政治─危機の時代の指導者像』『政治ジャーナリズムの罪と罰』『総理の座』『指導者論』『島倉千代子という人生』など多数


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