ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

苦いレモンの島 小野田少尉とルバング取材の思い出(原田 三朗)2010年4月

話そうとすると、よだれが流れる。長い単独行で口の動きに不慣れになったのか。別れの声へ心細げに頷き、タラップに向かった。新調した背広姿を見送って、同行2日間の、また2年間にわたる私の仕事は終わった。以来、小野田(おのだ)寛郎(ひろお)と会ったことはない。会おうとも思わない。


そのころ、マニラ駐在は朝日新聞だけで「ルバング島で日本兵1名を射殺、1名は逃走」という72年10月20日朝刊は、朝日の特ダネだった。出勤早々、現地へ行けとデスク。翌早朝、マルコス大統領の戒厳令で静かなマニラの街を抜け、予約済みの軽飛行機で島へ。飛行禁止らしかったが、空港の検問は強引に通り抜けた。チャーター料は1往復100ドル。これがその後の定価になった。


島の飛行場出口の小屋で空軍将校に「ここで待て」と停められた。アサンサという少佐。日本大使館の要請で記者は足止めだという。気のよさそうな男で、雑談するうち私と同年同月生まれとわかった。亥年仲間だ。「脱走するよ。どうせここに戻るんだ」と頼むと「その先に停まっているジープニーに村長のジラローラが乗っている。彼も同年同月生まれだ」といって横を向いた。


警察軍というのか、駐在の伍長が銃撃の当事者だった。なだらかな斜面のイモ畑。その最上部が現場だった。互いに撃ち合って1人射殺したという。2日後だが、死んだ小塚(こづか)金七(きんしち)の血の跡らしい変色した土が残っていた。小野田は畑の先の雑木林に逃げ、姿を消した。人が通り抜けたと思えない密生した林だった。私にはまったく潜り込めない。


○最強の通信社LNSの設立


小野田捜しの大騒ぎが始まった。小野田は姿を見せない。1往復100ドルが1日何往復にもなる。1週間が過ぎ、新しい動きはなくなった。取材費はうなぎ上り。だが、記者を撤収すれば、万一のときは、再び朝日の独壇場だ。取材協定を結ぼうと社会部長会が何回も開かれたが話は決まらない。現地から知恵を貸した。逆を考えればいいのだ。協定はない。取材は自由。ただし、各社が現地に1人ずつの記者と経費を出し、独自にプール原稿を書く。何があっても最初の2日間は、プール原稿が、朝日を含めて各社の独自取材を圧倒する。2日もあれば各社の取材態勢は整う。共同取材班は解散。この案が通った。常に現場は賢い。


新聞通信の6社が参加し、カメラは共同と時事が1人ずつ。共同取材班では面白くない。最年長の共同通信・橋本明が社長、私が専務になってLNS(ルバング・ニュース・サービス)を設立した。資本金は各社から集めた6000ドル。マニラの有名ホテルに各界名士を集めて披露パーティを開いた。喜んだのはフィリピン軍だ。LNSを捜索隊に受け入れ、ヘリに同乗させて山を探った。


当番を決めてマニラで食料などを用意し、交代で島に泊まった。私の定宿は、アサンサと3匹の猪で意気投合したジラローラの家。村人たちも、交代で招いてくれる。寝るときは、小さな蚊帳を布団から露出する顔のあたりにかける。屋根裏の梁には蛇がいて、ネズミが虫を食べてくれるが、天井がないので、時々寝ぼけて落ちてくるそうだ。皮と筋だけにやせたブタを村民挙げて丸焼きが大のご馳走という静かな村だ。


村人にとっては日本兵に悩まされ続けた年月だったそうだ。山の鬼だ。空き巣ばかりでない。夜、家を襲う。略奪のうえ放火されたこともある。死者も出た。アサンサも、休日に家族と海岸で遊んでいたところを襲撃されたと、太腿の傷跡を見せた。


小さな島でも、ヘリから見下ろす島頂部の森林は深い。兵隊と島民数人の護衛で山に分け入ろうと試みた。数百メートル進んだところに毒蛇のコブラがいた。これ以上は危ないからだめだと、案内が言った。引き返した。このような山を、小野田は縦横に飛び回って、生き抜いた。


無事生還は別の話だ。召集までは商社マンだった。生活力旺盛とも思えない。仲間の兵隊と同行するほかなかっただろう。1人だけになったいま、どう生き延び、島民の報復からどう逃げ切るか。医師である長兄の敏郎が、村人たちの無料診療を試みている。悪いのは小塚で、小野田はいい人なのだと話し続けた。それでも安心できない。膠着状態のまま、集中的な捜索は打ち切られた。LNS通信社も2週間で閉幕だ。


○“秘密兵器”ロペスの登場


それから1年半。ときどき厚生省の調査団が行く。私も何回か、同行した。小野田がどのようにして生きているのか、不思議だった。単独では食料も調達できまい。


戒厳令で、長い歴史のあるマニラ・タイムスも廃刊の憂き目にあった。失職した若い記者を紹介された。名門大学出の敏腕記者だという。カトリックの国らしく、若くても4人の子どもを抱えて食べなければならない。私の独断で毎月100ドルを取材費で出し、通信員にした。帰国後、社会部長の了解で、会社の送金にした。アントニオ・ロペスという。後年、ビジネス週刊誌で成功した。マニラの高級住宅街に警備員付きの邸宅を構えたが、それは20年後の話だ。


小野田の救いの神は、鈴木紀夫だった。冒険好きの若者で、自分を餌に小野田の誘い出しを計画した。島民が目撃した地点にテントを張った。小野田は危険がないことを確かめて接触してきた。鈴木の報告でフィリピン軍は、小野田との接触を公表した。マニラでは、参謀本部のガードが堅く、ルバング島も厳重な立入り禁止。あの取材狂騒曲の再現はない。74年3月になっていた。


日本大使館は相変わらず、頼りにならない。取材本部にしたホテルの部屋でいらいらしているところに、ロペスが飛び込んできた。タイプした紙を数枚、「ハラダさん、これ」と突き出した。「鈴木紀夫の供述」とタイトルが読めた。参謀本部のタイピストと仲良くなり、正式の調書のタイプに合わせて、わざとタイプし損じの紙をつくり、ゴミ箱に捨ててもらった。それを拾ってきたという。朝刊早版の締め切り間近。東京の社会部を電話で呼び出し、直訳の吹きこみを記事に直してもらった。1面のトップで、鈴木と小野田の遭遇と山を下りる話し合いの全容が判明した。


上司の谷口義美少佐が戦闘継続の命令解除を伝達したという形で、小野田は出てくることになった。谷口は直属の上官ではないし、小野田にも小塚たちへの指揮権はない、戦闘なるものの実態も単なる襲撃でしかない。私たちには茶番としか思えなかったが、それで小野田が生還できるのならいいではないか。それにしても、小野田は賢い。


○「最後の指揮官」の退場


3月9日夜、島のレーダー基地で投降式を行い、軍の保護によって10日、マニラに移動、マルコス大統領が恩赦をするというシナリオになった。夜であれば、島の住民も襲撃できないという読みである。困ったのは取材する私たちだ。1回100ドルの連絡便が使えない。電話も基地と参謀本部を無線で結ぶ軍用電話が2回線あるだけで、取材に開放することは拒否された。記事は予定稿と軍の発表でしのぐほかない。


電話が鳴った。ロペスだった。えらく遠い。どこにいるのだと聞くと、島の基地司令官の部屋だという。司令官の軍用電話を無断借用した。小野田の様子などを聞き、各社を通じて、唯一の生原稿を朝刊に送った。月100ドルでも、ロペスは、飛行機とは桁違いの高性能だった。


私は翌日の写真に「最後の指揮官」というキャプションをつけた。帝国陸軍の命令による行為なら、個人の責任は免除される。孤独な戦争を継続した、忠実な軍人像が浮かび上がる。指揮官として指揮刀を返納して私人に戻る。生き延びるために必死に考えた筋書きだろう。それも人間として自然なことだ。だから、帰国前に2日間ほど、マルコス大統領との会見のあと、日本兵の墓地などを回った小野田に同行した。


その手段はどうであれ、絶望的な状況を生き抜いた人間がいた。不条理に死んだ村民もいた。苦いレモンの島の思い出だ。 (敬称略)


はらだ・さぶろう 1935年生まれ 60年毎日新聞社入社 社会部副部長 編集局編集委員 論説委員 70年代 東京・社会部の海外事件担当として現地取材多数 定年退社後は駿河台大学教授 現在は名誉教授

ページのTOPへ