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ロッキード事件余話(村上 吉男)2011年11月

私とアーチボルド・C・コーチャンのこと

コーチャン死去のニュースは2008年12月の土曜日の昼下がり、自宅のパソコンに突然、メールで飛び込んで来た。「悲しい知らせがあります。父が先週、亡くなりました」で始まるメールは、ひとり息子のロバートさんからだった。


驚くと同時に、咄嗟に出たのは、すぐに記事にしなければ、という反応だった。あれから32年も経って現役も引退しているのに、ロッキード事件の取材競争から抜け切れていない自分がおかしかった。


会社に電話して記事にしてくれるよう依頼した途端に、事件のことやコーチャン氏との長い付き合いが、走馬灯のようによみがえってきた。事件後もずっと、メールや電話で連絡し合っていたからだ。3カ月後には西海岸にある彼の母校、スタンフォード大学にほど近い新居で会う約束にもなっていた。


●取材合戦の中、事件触れず毎晩電話


あれは1976年2月6日。米上院のフランク・チャーチ議員(民主)が委員長を務める多国籍企業小委員会の公聴会だった。真冬の寒い朝だったが、会場は熱気に包まれて

    

いた。米国の大手航空機メーカー、ロッキード社の海外不正支払い事件を究明する公聴会で、証言したロ社のコーチャン社長(当時)の口からいきなり、日本での不正支払いの領収証の暗号名が飛び出してきたからである。


「125ピーナツ、受領しました」「100ピーシーズ、受け取りました」などと書かれた紙に、ロ社の代理店、丸紅の役員の署名。ロ社からそれぞれ、1億2500万円、1億円受け取ったことを確認する領収証となっていた。これらは日本の政治家らに行く金だとコーチャン氏は聞かされていた。


他の諸国でも同じことが行われたのではないか。 軍用機を含むロ社の売り込み先だったオランダ、英、仏、伊、西独(当時)、さらに中東諸国やオーストラリア、インド、韓国など多くの国の特派員がいっせいに猛烈な取材合戦に突入した。むろん、米国のメディアは連日、この報道で持ちきりだった。


公聴会で明確に答えるコーチャン氏を見た時、この人物に聞くのが不可欠だと強く感じた。2月後半からほとんど毎晩のように、示し合わせた合図で電話をかけ、事件のことは何も聞かないで、政治やスポーツなどを話し合いながら信頼関係を築くことに精力を注いだ。ロサンゼルスとの時差から、電話をかけるのはいつもワシントン時間の午前2時ごろ。睡眠不足に悩まされた。自宅電話が盗聴されていることを警戒し、しばしば公衆電話からかけていたのでなおさらだった。


この間、2回ほどロスに飛んで本人と会えた。いっさい記事にしなかった。いつか単独会見ができるのではないかと、淡い期待感を抱きはじめていた。


●8日間60時間超の単独会見


それは8月に実現した。朝から晩まで、二人だけでホテルの一室にこもって、丸8日間、延べ60時間を超えるインタビューとなった。ロ社の最新鋭大型旅客機、トライスターL─1011型機を全日空に売り込むためにどんな不正支払いが行われたのか。その全容をつかむべく、右手のしびれをこらえながら懸命に取材した。


コーチャン氏は余人を許さず、テープをとることも拒んだ。おそらく弁護士の助言だったのだろう。


昼食も部屋でルームサービスにした。サンドイッチと冷たい飲み物がすごく楽しみな雑談の時間となった。さまざまな国の驚くほど高位の人物に巨額の金銭が贈られていたようだった。冷戦時代(当時)にあって、「不正支払い」とみなされるものが、西側陣営に貢献した面は評価しないのかと、コーチャン氏は不満だった。東側陣営からの、採算を度外視した兵器の売り込みなどが、「不正支払い」受領者の判断で、阻止されたケースには無視できないものがあったはずだという。


暗号領収証は、田中角栄首相(当時)側に行くとされた5億円の受取証だったこと、ロ社による不正支払いは40億円近い巨額だったことなどを3日間にわたり朝刊で詳細に報道した。


●支払い拒否はゲームからの脱落


新聞に出た直後から、各国のメディアや日本の週刊誌などからの電話が連日、連夜、自宅などに殺到してきた。コーチャン氏の居場所や連絡方法、ある特定国のことを何か話していなかったかなど、取材のラッシュに総局のドアのカギをかけ、自宅の電話にも出ないようにした。まるでコーチャン氏の身代わりにされた感じだった。


ところで、コーチャン氏は、この種の支払いが総売上額の5%以内にとどまる限り、通常の手数料と考えるべきだと割り切っていた。40億円は、ロ社が全日空への売り込みに成功した21機のトライスター旅客機の総額、1300億円の3%ほどだ。むしろ、これらの支払いは、航空機売り込みゲームへの参加費のようなもので、支払いを拒否することは即、ゲームからの脱落を意味したという。


公聴会のあと間もなく引退した彼は、ネヴァダ州の湖のある保養地にルーシー夫人と住み、ロ社の海外不正支払い問題に関しては完全に口を閉ざした。手を替え品を替え、あらゆる国のメディアがアプローチしてきたが、いっさいの会見を断っていた。


トライスター機売り込みの滞日中、週末にはルーシー夫人とよく、箱根や伊豆、そして一度は長良川の鵜飼見物に出かけたりした。てんぷら、松阪ステーキなどが大好物だった。日本再訪を何度か勧めたが、「弁護士が許してくれない」と拒み、最後まで実現しなかった。


●かなわなかった回顧インタビュー


ルーシー夫人が2002年に亡くなったあと、刑事訴追される恐れのないヨーロッパのハンガリーやスイスなどに、友人たちと旅行にでかけたりしていた。クリスマスには息子一家と過ごすのが決まりで、ネヴァダ州からカリフォルニア州の息子の家まで、90歳になっても、一人で8時間も車を運転して行った。息子からも叱られていたようで、91歳になった2005年から息子の家の近くに居を移した。


2008年の4月に転んで足を骨折。入院とリハビリをして自宅に戻ったら、すぐまた転んで腰の骨を痛め、再入院。メールが遠のいたので、その年の11月に電話してみた。


入院先のベッドから大きな声で、「いつカリフォルニアの新居へ来てくれるんだ」と言われたので、かねてから思っていたことを聞いてみた。「来年春、3月ごろに記者を一人連れていくから、ロ事件を顧みていまの心境を語ってほしい」と。コーチャン氏は「もうあまり憶えてないけれど、話し合おうか」と快諾してくれたので、同行予定の記者に伝えた矢先の訃報だった。


お悔やみの電話で、ロバートさんに「1カ月前にあれほどお元気だったのに」と尋ねると、「あなたと話すときはいつも元気ぶるんですよ。本当はもう、衰弱しきってました」「ご連絡が遅れて済みません。メール・アドレスが見つからなかったので」と述べたあと、地元の新聞に一応知らせたところ、ロ事件のことを聞きはじめたので、「何も知らないって、ガチャンと切りました」と言っていた。息子さん一家にとっては、もう思い出したくない事件だった。


むらかみ・よしお 1965年朝日新聞入社 バンコク支局長 アメリカ総局長 外報部長 国際本部長 取締役国際担当など 現在 米テンプル大学日本校特任教授 インタナショナル・ヘラルド・トリビューン・アジア版特別顧問 

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