ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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パルメ首相は近所の菓子屋で棒チョコを買っていた(住川 治人)2011年7月

ガムラスタンは中世都市の面影を残すストックホルムの旧市街である。曲がりくねった石畳の路地の両側には北欧風の建築が軒を連ねる。


王宮や議事堂があるこの地区は、水の都と呼ばれるストックホルムの発祥地だ。かつて裕福な商人の店が並んでいた街はいま観光名所になっている。その西側にあるベステルロング通りを訪ねたのは、もう25年も前のことである。冬の日は暮れて狭い通りに面したショーウインドーは電飾に照らされていた。


番地を調べておいたので首相のアパートはすぐに見つかった。1階は服飾店とレコード屋である。店の間に入り口があり、紅いローソクが1本そっと立てられていた。


オロフ・パルメはその数日前にストックホルムの路上で暗殺された。金曜日の夜、繁華街の映画館でコメディーを見た後、夫人と2人で歩いて地下鉄の駅に向かうところをピストルで撃たれたのだった。


現職の首相が殺害されるという衝撃的なニュースである。ロンドンから急ぎ現地に入った。警察の記者会見に出て原稿を書いたが、捜査は進展しない。そんな時、思い立って首相の住まいを見に行った。


●歩いて出勤、1人のことも


案の定、ごくふつうのアパートで、警官も立っていない。なにしろ、事件当夜もそうだったが、しばしば警護を付けずに首相は出歩いていたという。それなら、と思って向かいにある菓子屋に飛び込んだ。


「このお店にパルメさんは来ていましたか?」と切り出すと、売り子の娘は「ええ、チョコレートを買いにみえたわ」と答える。「好きだったのはナッツ入りのこのチョコレートよ」と指差すのは、日本でも手に入るありふれた棒チョコだった。


ベステルロング通りだけに店構えは古いが、キャンディやクッキー、チョコレートなど雑多な品揃えの町の菓子屋。そこに首相が1人で来てチョコレートを買っていく。


向かいのアパートにパルメ夫妻が引っ越してきたのは2年前。毎朝、店をあける頃、彼は歩いて出勤した。首相府までは約5分。1人のこともよくあったと売り子は話した。


角の薬局できくと、風邪薬を買いに来たというし、書店ではクリスマスの贈り物にする本をさがしていたという。理髪店主とはファーストネームで呼び合う仲だ。キノコ狩りやジョギングの話をしながら頭を刈ったという。散髪は6週間ごと。「もっとちょくちょく刈るように勧めたけれど駄目だった。服装も気にしない人だったね」と店主は語った。


●部屋をのぞき込んで立ち話


実はこの前年にパルメに遭遇したことがあった。北欧事情を紹介する連載の取材でスウェーデンに行った時のことだ。労働時間短縮の話でカールソン副首相に取材した。


ガムラスタンから橋を渡ったところに首相府がある。20世紀初頭の重厚な建物で、昔は料理店などに使われていた。確か5階に副首相室があった。簡素な部屋でカールソンの話をきいていると、ドアを開けてヌーっと顔を突き出す者がいた。カールソンと二言三言話して立ち去ったが、それがパルメだった。


首相執務室がホールを挟んだ向かいにあるとは聞いていたが、なんとも気楽にのぞき込んで副首相と立ち話をするところが印象的だった。ベステルロング通りの隣人に対する気さくな振る舞いと変わりない。1週間の仕事を終えて夫人と映画を見に行くなど、首相とはいえ普通の生活者でもあることが良くわかる。


●北欧諸国は取材に協力的


連載では女性の社会進出や禁酒運動、高額の税金など北欧らしい話題をとり上げた。福島原発災害で日本政府もようやく自然エネルギーを真面目に考えはじめたが、当時デンマークは風力発電ブームの最中だった。活況の風車メーカーや庭に風車を立てて自家用を賄い、余った電気を売って稼ぐ市民を紹介した。


オスロで驚いたのは、南欧産の野菜を売る八百屋が開店して話題になっていたことだ。日本ではとうの昔に買えるようになっていた西洋サラダ菜が、北辺のノルウェーでは、やっと庶民の目に触れるようになったところだ、というのだ。


北海油田で豊かになるまで、ノルウェーはつましく、野菜といえばニンジン、タマネギ、ジャガイモ、キャベツにトマトといった地元産のものだけだった。バイキングの末裔らしいシンプルな暮らしである。


北欧諸国は取材に協力的だ。ロンドンのスウェーデン大使館に取材したい相手のリストを伝えたら、ストックホルムの外務省では日本語ができる外交官が待っていた。


取材先のアポはとってあるし、日程表まで用意してあって、「さあ、ご案内します」というのである。もちろん、旧ソ連のように案内者がお目付け役ということではない。あまりのサービスに感激した。


この外交官はその後、ノーベル賞授賞式で、益川敏英さんら日本人受賞者の世話役を務めることになったカイ・レイニウスさんである。


小国であることを意識しているせいか取材しやすい北欧諸国と違って、イギリスやフランスは厄介だ。


電話で官庁に取材協力を求めると、「わかりました。その話を手紙にして送ってください」などと言われる。最近は知らないが、かつては何かというと一筆書く必要があった。


東西冷戦の時代、NATOの米英軍はスコットランドとアイスランドを結ぶ線で、北海から大西洋に出るソ連の潜水艦を探索していた。正月企画で対潜哨戒機の同乗取材を英国防省に申し入れた時のことだ。


●英国防省から詫び状をとる


例によって一筆書かされた。暫くして電話を入れると、どこそこの許可を取るところだ、という。1週間後、許可が出て「スコットランドの基地に行ってもらう」という。


ところが、それからだ。いくら待っても取材日が決まらない。


原稿締め切りが気になりだした頃になって、「貴君は、国防省の機密事項取材の許可がないから同乗できない。対潜哨戒活動は話も不許可、と基地司令が言っている」というのである。「冗談じゃない。そんなことは最初に言うべきだ」と怒鳴ったが埒はあかない。腹の虫がおさまらずこの時ばかりは、こちらから、「手紙を書け」と要求してやった。


国防省広報官は詫び状を送ってきた。だが、そんなものは、何の役にも立たない。正月企画をどうするか。真っ青だ。困り果てて、ロンドンにある米軍の連絡事務所に駆け込んだ。アイスランドの基地から対潜哨戒機を飛ばしているのは米軍だ。事情を説明して協力を求めた。


哨戒機の同乗には機密事項取材のための身元調査が必要だが、基地に行って哨戒機のパイロットに取材するだけならOKだ、とあっさり受け入れてくれた。そこまでなら広報官の権限で許可できる、という。さすが新世界は違う、と感心した。


お国柄の話のついでに仏国防省の幹部に会った時のことだ。取材を申し入れると、午前11時半と指定された。昼休み前で時間がない。矢継ぎ早に質問していると、「さあ、行こう」と言うのだ。何事かと思っていると、車に乗せられて行った先はパリ市内の将校クラブだった。


豪華な個室がとってあり、上等なワインにフルコースの料理。話はたっぷり聞けて文句はない。でもなにか変だ。接待される謂れはない。きっと私は、美味いタダ飯にありつくだしにされたのではないか。美食の国らしい経験であった。


すっかり脱線してしまったが、パルメの話を書いたのは、大震災や原発災害そっちのけで争う日本の政治家に愛想が尽きるからだ。


政治家は会食に明け暮れる生活をやめ、運転手つきの車を捨てて電車やバスで国会に通った方が良い。帰宅が遅くなったら近所のコンビニで弁当を買って食べるような政治家であれば、多くの国民の考えを察して愚かしい政争をやめるはずだ。


すみかわ・はるひと 1944年生まれ 68年朝日新聞入社 パリ支局員 ヨーロッパ総局員 モスクワ支局長 外報部長 編集局次長 論説副主幹などを務め03年退社 03年茨城大学人文学部教授 09年定年退職

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