ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

カダフィ・ガールズに出会った(松本 仁一)2011年5月

チュニジアで始まった民主化運動はエジプトの政権打倒につながり、さらにバーレーン、イエメン、リビア、シリアと、中東全体に波及している。


とくに、カダフィ大佐の圧政が続くリビアで反政府の武装闘争が起きることなど、だれも予想できなかったのではないだろうか。

 ところで、反カダフィ派が首都トリポリ目指して進軍していた3月初めごろ、新聞の片すみに「大佐の身辺の世話をしていたブロンドのウクライナ人女性が出国した」という記事が載っていた。


そうか、あの大佐でも68歳になると女性の好みが変わるのかと、おかしく思った。なにせ30年前、私が目撃した「身の回りの世話」係は女子高生の仕事だったのだから。


1983年6月、エチオピアの首都アジスアベバで開かれていたアフリカ首脳会議(OAU)を取材していた。


OAUは現在のアフリカ連合(AU)の前身だ。各国首脳の思惑がばらばらで、有効な提言などしたこともない。惰性で開かれているだけ、およそ意味のない集まりである。しかし、ふだんはめったに会えないアフリカ首脳に会うことのできるチャンスだ。そのため世界中から取材陣が集まっていた。


●サンダルにカラシニコフ


プレスセンターでテレックスを打っていると突然、首脳会議場の入り口あたりでなにやら騒ぎが始まった。男や女の叫び声が飛び交い、警備兵が銃を抱えて走っている。何事だろう。こちらもプレスセンターを飛び出して兵士のあとに続いた。


会場ホールの正面大階段には、首脳用に赤じゅうたんが敷かれている。そこを、軍服姿のカダフィ大佐が上がっていくのが見えた。そのあとから少女の一団がついていこうとし、警備のエチオピア兵ともみ合いになっているのだ。


白いブラウスにサンダルばき、ふだん着姿の少女たちが10人ほどいるだろうか。手にむき出しのAK47自動小銃を持ち、腰には大型拳銃の入ったズックのケースを下げている。


この物騒ないでたちで各国元首の居並ぶ会議場に入っていこうとしたのだから、エチオピアの警備兵があわてたのも無理はなかった。


すきを見てすりぬけようとする彼女たちを警備兵が追っかけて捕まえ、階段から突き落とす。スカーフを巻いたかわいい顔立ちの少女が、目をつりあげてののしりかえす。えらい騒ぎである。会場に入れなくなった首脳たちは周りを取り囲み、口をあんぐり開けてこの騒ぎを眺めている。


「あれがカダフィ・ガールズだよ」。横の英国人記者が苦笑しながら教えてくれた。


●「命も惜しくありません」


カダフィ・ガールズはほとんどが17、18歳の高校生だが、大佐の公式のボディーガードであり、身の回りの世話係である。大佐が行くところどこにでも、ふだん着のまま武器を持ってついて歩き、周りのひんしゅくを買っている。


外国訪問の際の国家元首の警備は原則として受け入れ国側の責任であり、訪問側はそれを尊重するというのが外交上の慣例だ。自国から警護員を連れてくる場合でも、相手国と打ち合わせたうえで目立たないように警備するのが常識だし、会議場の中などには入らない。しかしカダフィ・ガールズはそんな常識などお構いなしだった。


会議場わきの花壇のわきで、ガールズの一人をつかまえた。階段から突き落とされ、大声で叫んでいた白いスカーフの少女だ。


彼女は首都トリポリの女子高校の3年生で17歳だと、きれいな英語で答えた。


「私たちは、アメリカやイスラエルの陰謀から偉大な指導者を守る使命を与えられています。そのためには命も惜しくありません。イスラエルや米国など、指導者の命を狙っている勢力がある以上、武器を手放すわけにはいきません」


●他国元首を突き飛ばしても


警備の高校生は学業や運動の成績のとくにいい生徒の中から選ばれるのだという。「指導者の警護に選ばれたことを誇りに思っています」と彼女はいった。


彼女は私に対しては礼儀正しく、いかにも優等生らしい答え方をし、さっきのののしり声が信じられない態度だった。


その前年の82年11月、トリポリで開かれたOAU首脳会議は、リビアを議長国とすることに反対する国々の欠席で流会となった。大佐は怒り狂った。このときもカダフィ・ガールズが“活躍”している。


何とか流会させまいと骨を折ったザンビアのカウンダ大統領、タンザニアのニエレレ大統領ら長老の首脳たちが深夜、疲れ切った表情で会議場の玄関に現れ、帰りの車を待っていた。そこにサファリスーツ姿のカダフィ大佐が出てきた。拳を振り上げ、なにか大声で叫んでいる。


と、あっという間もなくカダフィ・ガールズが走りよった。ニエレレ大統領やカウンダ大統領を突き飛ばし押しのけ、まっすぐ大佐を取り囲み、どの元首よりも先に車に乗せ、すごい勢いで走り去ったのである。


大事な国賓を突き飛ばしてでも自国の「偉大な指導者」を先に車に乗せるという盲目的な忠誠ぶりにあきれ返ったものだ。突き飛ばされて私にぶつかってきたニエレレ大統領のびっくりした顔が忘れられない。


バランス感覚のない子どもにひとつの価値観だけ教え込み、適当な権威を与えると、妙に常識を持ってしまった大人より忠実で役に立つ場合がある。アフリカの子ども兵はみなそうだ。ナチスもそうだったし、わが国では平清盛が情報収集にその手を使っている。カダフィ大佐が子どもグルーピーを身辺警護に選んだのは、考えてみるといい方法だったのかもしれない。


●圧政に慢心、気が緩む?


そのカダフィ大佐が「カダフィ・ガールズ」をやめてウクライナ人の金髪女性をそばに置くようになったのはなぜだろう。気の緩みだったのだろうか。


首都トリポリの町を歩くと、おかしなスローガンがあちこちに張り出されていた。「リビア人は賃労働をしてはいけない」と書かれている。リビア市民は他人に雇われて仕事をしてはいけない、政治に専念しろ、ということらしい。


リビアの政治理念は直接民主制だった。大佐が「古代ギリシャのポリス政治を再現する」と唱えていたためだ。国民全員が順ぐりに参加する地区政治委員会があり、その意見がまとめられて中央政治が決められるタテマエになっている。


リビア人は労働をしない。そのため町は出稼ぎ外国人ばかりだった。ホテルのドアボーイはフィリピン人、レストランのウェーターはチュニジア人、クロークはエジプト人、掃除係はスーダン人……。


しかし、直接民主制といってもカダフィ批判は許されない。国内には秘密警察がうようよいて、不穏の言動に目を光らせていた。


リビア人はカダフィ革命から40年余、それに抵抗しなかった。2世代にわたる権力独裁が国民の牙を抜くことに成功した──。大佐はそう思いこんだのではあるまいか。大佐はそれで気を許し、カダフィ・ガールズをやめてウクライナ女性に切り替えてしまったのではないか。


その気の緩みの虚を突かれたというのは、ちょっとうがちすぎだろうか。


まつもと・じんいち 1942年生まれ 68年朝日新聞入社 ナイロビ支局長 中東アフリカ総局長 編集委員 コラムニストなどを務め08年退社 07年度日本記者クラブ賞受賞 著書に『カラシニコフ』『カラシニコフⅡ』『アフリカ・レポート』など

ページのTOPへ