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政変は情報化、高学歴が後押し(吉田 壽孝)2011年4月

イスラム世界にはクリスマス休暇もないし、新年を祝う長い休みもない。チュニジアの動乱を予感させる動きが表面化したのは暮れも押し詰まった昨年12月26日の日曜日。夕食後チュニスの自宅で仏語テレビニュース番組「France24」を見ていたら画面の下に「チュニジア中西部で激しい暴動」のテロップが流れた。

 

一瞬息をのんだ。ベン・アリ政権の下で反政府的な言動は徹底的に取り締まられ、市民が抵抗などすれば無残に鎮圧されることは目に見えていたからだ。しかし、市民の反政府抗議行動は年を越えて持続、拡大する。そして1月14日、ベン・アリ大統領の国外逃避によって23年間の強権支配体制が崩壊した。この市民暴動がエジプトへ、そしてリビアへと波及したのは周知の事実である。

 

私がチュニジアに赴任したのは2009年秋。JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティアとしてチュニジアの政府機関「外国投資振興庁」で投資・資本誘致のアドバイザーを担当した。

 

チュニジアには3000社を超す欧米企業が生産拠点を構えているのに工場を設けている日本企業は数社に満たない。この国が雇用機会を増やし、技術移転などで生産基盤を整備するには外国企業の進出が不可欠なのだ。日本の経済産業省の働きかけもあってチュニジア投資に関心をもつ企業からの問い合わせがふえていた矢先きだっただけに、この内政動揺は大きな打撃となった。

 

 

全土非常事態宣言が発令された1月14日をはさむ数日間は夜間外出禁止令もあって緊張と不便を強いられた。チュニスの中心部から少し離れた住宅地でも銃声が聞こえたし、政府施設が入った建物が放火され、あちこちで黒煙をあげていた。商店は略奪を恐れてか、どこも閉鎖。

 

冷凍したパンや冷蔵庫の生鮮食品などがいつまでもつかと不安になり始めた頃、JICA事務所から引き揚げ指示があった。スーツケース一個に詰められるものだけを詰めてパリに退避し、さらに日本に避難帰国したのが1月26日だった。

 

チュニジア政変が、その後波及したエジプトやリビアの反政府暴動に比べて短期間で勝負がついたのにはいくつかの理由がある。第一に軍があっという間に市民側についたこと。ベン・アリ氏が軍への警戒心から予算を厳しく管理し、装備も要員も増強されなかったとする指摘が多い。その分を大統領警護隊の強化に振り向け、私兵化したこれら警護隊の若者と軍が銃撃戦を交える形となった。

 

もう一点、皮肉なことだが政府の教育重視政策、産業のハイテク化・情報化推進が墓穴を掘る結果となった。チュニジアは人口1000万人の国だが、大学生が36万人もいる。これは近隣のモロッコなどと比べて人口一人当たり3倍に相当する数字だ。「地下資源に恵まれない国は人的資源を開発する以外にない」と、毎年国家予算の25%を教育投資に振り向けてきた政府の決意は全く正しいものだったのだが、高学歴の若者たちが雇用機会を創出できない政権に対してネット情報などを通じて結束し、反旗を翻すのは時間の問題だったといえる。

 

チュニジア情勢は今後どう展開するのだろうか? 

 

真空鍋のふたが吹き飛んだ後、新しいバランスを求めてさまざまな勢力がせめぎあい、綱引きが始まっている。政教分離の下で厳しく規制を受けてきた宗教勢力は国民の間に強まるイスラム化の流れを引き寄せようとするだろう。軍はこれまで日陰に置かれたが、国を統治する自らのパワーに目覚めれば軍政をもくろむかもしれない。反政府運動を主導した市民グループはより明確な改革を求めている。旧体制の人々も復権を目指してすでに動いている。

 

 

チュニジアへの再赴任は4月中に実現しそうである。復帰したら、せっかく強い追い風が吹き始めていた対チュニジア投資案件をなんとか形あるものにしたい。まだ数カ月残されている任期一杯、あの人なつこく、親日的なチュニジア人のために、そして投資戦略を練る日本企業のためにも、チュニジアンブルーの空の下で頑張ってみたいと願っている。

 

よしだ・としたか 1964年日本経済新聞入社 パリ特派員 ワシントン支局長 外報部長などを務め 2007年退社

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