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忘れえぬ人々 転換期のハリウッドとスターたち(長谷川 和明)2011年3月

50年近く前、私が初めての海外任地として赴任したロサンゼルスは「映画の都」ハリウッドが守備範囲だった関係で、そこに集まる世界的に有名なスターたちと知り合う幸運に恵まれた。


さすがに、長年ハリウッドでスターの座を維持し、高い人気を保っている俳優たちはそれぞれ、なんともいえない人間的魅力を持ち、彼らとの交流を通じてその後の記者生活を支えるうえでの取材の基本や人に接するに当たっての心構えなど教えられることが多かった。


私のハリウッド取材は全くの偶然だった。当時、時事では国内の映画会社や映画館、劇場向けに「映画芸能版」という映画製作や興行に関する情報を中心とする活版通信を発行しており、それに掲載する原稿があれば送るようにと言われていた。しかし、私はあまりその気のないまま、着任後間もなくハリウッド記者会に入会、見学がてらMGMやコロンビアなどの大手映画会社に行き、担当者とよもやま話などをしていた。


●常駐特派員一人の強み


その話の中で、ハリウッドの映画産業がうわべの華やかさの裏で大変な危機に直面していることを知り、仕入れたばかりの情報を記事にして、「映画芸能版」に送ってみた。それが運よく編集長の目にとまり、それ以降、定期的に取材・送稿するようになったのがきっかけだった。


こうして撮影所回りを続けているうちに、自然に出演中の俳優たちと親しくなり、ビバリーヒルズの豪邸に招かれる機会も増えていった。ただ、残念なことに、映画スターや監督たちとの長いインタビュー記事を送っても、まだマスメディアサービスに本格的に参入していなかった時事には、編集局内で使うところがなく、出稿記録が残っただけで、ほとんどが幻と消えた。


そのころ、ロサンゼルスに常駐の特派員を置いていたのは時事一社のみ、他社は現地の通信員で対応していた。このため、ハリウッド記者会の日本人特派員は私一人、その一人という立場が取材のうえで幸いした。

当時の日本はハリウッド映画の最大の輸出市場の一つで、唯一の日本人記者に対する映画会社側の気の配りようは格別だった。撮影所への出入りはほぼフリーパス、出演者へのインタビュー申し込みはほとんど一発でOK、人気俳優とも比較的簡単に会えた。


私がインタビューしたスターには、女優では「風と共に去りぬ」のビビアン・リー、「黒水仙」のデボラ・カー、「若草物語」のジャネット・リーなど(マリリン・モンローは謎の死を遂げた後だった)、男優では「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストン、「ローマの休日」のグレゴリー・ペッグ、「炎の人ゴッホ」のカーク・ダグラスなどがいた。


大統領になるずっと以前、ハリウッドで「二流役者」としか見られず、映画界から離れて政治家への道を進んでいたロナルド・レーガン(当時はリーガンと呼ばれていた)とも、カリフォルニア州知事選の取材でインタビューした。


●栄光から挫折へ


そんな中で特に印象に残っているのはやはり、「風と共に去りぬ」のスカーレット役で華々しく登場、一躍一世を風靡したビビアン・リーと俳優から政治家に鮮やかに転身したレーガンの二人。


高校時代にこの映画を見て以来あこがれの女性ともいえるビビアン・リーとのインタビューが実現したのは、彼女の最後の出演作「愚か者の船」の撮影中だった。


彼女は「風と共に去りぬ」と「欲望という名の電車」で二度もアカデミー主演女優賞を受賞した押しも押されもせぬ大スターだったにもかかわらず、この時期はローレンス・オリビエとの再婚と破綻、結核感染とそううつ病によるヒステリー、アルコール中毒など異常な私生活が災いして、久しく映画出演から遠ざかっていた。


だが、私が会った時の彼女は一介の若造記者に対しても終始礼儀正しく、ぶしつけな質問にも嫌な顔もせず丁寧に答えてくれる温和で優しい女性だった。おそらく、それまでの波乱の人生に区切りをつけ、心静かな境地に達していたのかもしれない。どん底から立ち直り、満を持して出演した復帰第一作が彼女の映画人生の最後となり、その後間もなく53歳の若さで生涯を閉じた。


●二流役者の意地


その点、気さくでおおらかなレーガンの印象は、50年前も大統領になってからテレビで見る印象もほとんど変わらない。当時のレーガンは元俳優というイメージが強く、私もそうした偏見を持ってインタビューに臨んだ。しかし、インタビュー後その偏見は崩れ去り、私の見方を改めなければならなかった。


アナウンサー時代に鍛えた明瞭な発音、司会業で培った巧妙な話術、当意即妙な応答、演技力、人を引き付ける人柄と包容力。そして何よりも驚いたのは揺るぎない信念と強い政治意識だった。どれも政治家にふさわしい素質を完璧に備えていた。


東京には早速、「俳優出身とは思えない資質と指導力を持った人物」というプロフィールを送ったものの、恥ずかしながら、その時、彼が将来、大統領になるとは思いもしなかった。俳優出身という先入観と「二流役者」という映画界での低い評価がそのまま頭に残り、本人を自分なりにしっかり観察しないまま判断した結果だった。


同じ意味で、公民権運動に力を入れ、マーチン・ルーサー・キング牧師のワシントン大行進にも参加したチャールトン・ヘストン(「ベン・ハー」でアカデミー主演男優賞)、政治的にリベラルで、政界進出のうわさが絶えず、保守的なニクソン大統領から政敵視されたグレゴリー・ペッグ(「アラバマ物語」でアカデミー主演男優賞)らの有名スターたちも、スクリーンではうかがえない高い知性と確固とした見識を持ち、レーガン以上に優れた政治家になりうる素質を備えているように思えた。


●吹き荒れる変革の風の中で


私がロサンゼルスに駐在していた1963年から65年までの2年半はダラスでのケネディ暗殺、キング牧師のワシントン大行進、ワッツ暴動など米国全体が騒然とした時代だった。


ハリウッドも急速に普及し始めたテレビの攻勢に押されて斜陽化、その対抗策として巨大資本と大物スターを総動員した超大作主義を旗印に激しい巻き返しを図ろうとしていた。とりわけ、50年代から60年代にかけて、米国の映画産業はテレビの台頭以外にも、共産主義の脅威とそれに対するマッカーシズム旋風(赤狩り)、多くの映画人の追放、独禁法の強化に伴う制作と興行の分離、ヌーベルバーグ運動の登場など、業界内外で厳しい試練に直面し、映画会社も俳優たちもかつての「ハリウッドの黄金期」の復活を夢見て、必死に取り組んでいた。


60年代初めのハリウッドの苦悩とそこで働く人々の復活への道を探る真剣な努力は、私には、インターネットの登場など激しい情報環境の変化の中で苦しみもがく現在のメディアの姿とも重なり、今でも忘れられない記憶として鮮明に残っている。


はせがわ・かずあき会員 1935年生まれ 60年時事通信入社 外信部 ロサンゼルス ワシントン各特派員 ニューヨーク ロンドン各支局長 社長室長 国際本部長 取締役編集局長兼解説委員長 中央調査社会長 現在 新聞通信調査会理事長 著書『第三の帝国 多国籍企業の実態と戦略』など

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