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ナミビア 国連の独立支援活動を見る(堀内 敏宏)2010年12月

“自衛隊PKO”前夜
10年程前 “Show the flag”(旗を見せろ)という言葉がはやったことがある。日本の国際貢献、中でも安全保障分野への参加に不満を持つ、当時の米政府国務副長官で、今秋当クラブでも会見したリチャード・L・アーミテージ氏が、言い出しっぺだったとされる。日本ではその頃、イラクやアフガニスタンのテロ防止作戦に伴う、インド洋での後方支援に自衛隊が参加すべきかを含め、国連PKO(平和維持活動)の枠から一歩踏み出した、安全保障への貢献が論議の的になっていた。

以下は、それから更に一昔さかのぼり、日本が自衛隊のPKO派遣により、目に見える(旗が見える)国際安全保障の仲間入りを目指していた時期、いわば“自衛隊PKO”が実現する前夜の体験である。

1989年、昭和が平成と変わって日も浅い頃、当時東京の国連広報センター所長代行で、プレス担当をされていた中村恭一さん(元毎日・現文教大学教授)から、ナミビア(旧南西アフリカ)で国連が執行する、独立選挙の準備状況を取材しないかというお誘いを受けた。

●日本からも選挙監視団

この選挙は、長らく南隣りの南アフリカ共和国(南ア)の実質支配下にあったナミビアを、国連管理・国際監視下の民主的選挙を経て独立に導くためのもので、ナミビアの首都・ウィントフクには、アハティサリ国連事務総長特別代表(後のフィンランド大統領)を長とする、UNTAG(国連ナミビア独立移行支援グループ)の本部が置かれ、文民部門には日本からの要員も参加していた。

しかし、課題であった自衛隊を含む軍事部門への参加は、この時点ではいまだ実現しておらず、この取材旅行への招待はマスコミを通じて、PKOの実態を日本国民に伝えることにより、自衛隊派遣への地ならしをしたいとする、国連側の意図も込められていたように思う。

ナミビア行きには、報道局外信部から解説委員室に移ったばかりの私を含む、5社(朝・毎・読・共同・NHK) の記者と中村さんが参加し、9月10日成田出発、欧州・南ア経由で3日目の朝ウィントフクに入った。南アのヨハネスブルク空港では、国連と不仲の南ア当局が我々に入国ビザを出さなかったため、一夜を空港待合室で明かす羽目になった。

当時のナミビアは、日本の2倍強に当たる広い国土に人口約150万、大西洋岸南部と内陸東南部は広大な砂漠に覆われ、産業といえば沿岸の漁業と中北部高原の農牧に頼る“最貧国”であり、ウラン、ダイヤモンド、銅、亜鉛など豊かな地下資源は、冷戦の代理戦争と言われたアンゴラ内戦などのあおりで開発が遅れ、交易の港も南アの飛び地として、まだその支配下にあった。

我々は、首都ウィントフクのPKO本部でまずアハティサリ特別代表と会見し、PKOの現状と選挙実施の見通しなどを聞いた後、市内や郊外の黒人居住区などを取材したが、私はカメラクルー無しのビデオ携行取材だったため、慣れない撮影や貧しく非衛生な生活環境に、気疲れしたのを思い出す。

ナミビアの住民は、オランダ、ドイツ、南アと長く続いた白人支配の下で差別や搾取に苦しんだだけに、独立運動の中核だったSWAPO(南西アフリカ人民機構=翌年独立後の政権与党)に親近感を持ち、水道や電気もない居住区暮らしから、一日も早く脱出したいと望んでいた。

我々はチャーター機でアンゴラ国境に近い、北部の町・オシャカチにも足を伸ばした。眼下には草原を移動するキリンの群れや、真っ白に輝く塩湖などが見えた。

降り立った町では、選挙運動の行列やポスターなどに迎えられ、風呂敷ほどもある大きな投票用紙に吃驚した。オシャカチ行きは、ここからさらに東の奥地で選挙管理に携る日本人の国連要員・島田貫吾さんと会うためだった。すっかり日焼けした島田さんは、住民に選挙の意味や仕組みを理解させるのが大変だと語り、この地域から内陸の大湿地帯・オカバンゴに注ぐ大河の周辺では、何人もの子どもを含む住民がワニの犠牲になるなど、危険な環境の中での仕事であることも教えてくれた。

ちなみに島田さんとほぼ同じ頃、ジュネーブの国連人権センターから、ナミビアに派遣された日本人の男性職員は、着任後任地に向かう途中、交通事故で殉職しており、島田さんもニューヨークに帰任後、交通事故で亡くなられたと聞く。心からご冥福を祈りたい。

ウィントフク最後の夜は、一同そろってレストランで野牛ステーキと南アワインのディナーを味わったが、店の入り口には南ア支配の名残を示す、人種隔離の表示が残っていた。

1週間余のナミビア取材を終えた我々は再び欧州に飛び、そこで三手に分かれたあと再びニューヨークで合流し、国連の取材に当たった。

ロンドン経由で入った私は、国連本部で当時のデクエヤル事務総長(後のペルー首相・外相)に、今で言うカメラつきのぶら下がり取材をし「3つ質問するが…」と前置きして、地元記者団からブーイングを浴びつつも「日本のPKO参加拡大を期待する」などの答えを得た。

取材の段取りをしてくれた女性報道官は、後にイラクに赴任し国連事務所の爆破テロにあって殉職している。国際貢献の犠牲者は、国籍、男女、軍民を問わないことがよく分かる。

一方、ベルリン経由で米国入りした仲間は、その1月余り後、東西民衆の手で破壊されて、“冷戦に終止符を打った”ベルリンの壁を、崩壊直前に見る機会に恵まれた。この冷戦終結がきっかけとなって、国連は一時的にせよ国際政治の表舞台に復帰し、冷戦後世界の安定をかけたPKO活動がにわかに脚光を浴びた。

●国際貢献 旗は見えたか

日本でもその後、マスコミ・世論の影響もあってかPKO協力法などが成立し、カンボジア和平と再生のためのPKO(UNTAC=国連カンボジア暫定統治機構=事務総長特別代表は明石康氏)に、初めて自衛隊の部隊派遣を実現するなど、次第に存在感を高めていった。当時、外務省でこれらの法整備に奔走されたのが、高須幸雄国連政策課長で、つい先頃までニューヨークの国連日本代表部の首席大使を務められた。

自衛隊派遣を含む日本の国際貢献は、その後PKO以外に災害救助や難民支援などの国際緊急援助、さらには国連が直接には関与しない、有志連合(多国籍軍)の後方支援にも間口を拡げて来た。

それでも、冒頭で触れた“旗を見せろ”という外圧が消えたとは言えない。その陰には、バブル崩壊後の経済停滞と財政難で、日本のODAが90年代の世界第1位から、現在第5位まで減ってしまったことや、自衛隊のイラクでの人道支援と航空支援が終わり、インド洋で国際テロの封じ込め作戦に従事する有志連合艦船への、燃料補給業務からも撤退したことなどにより、日本の存在感がかえって薄まったことなどがある。

昨年の政権交代後、現政権はインド洋での補給活動を、アフガニスタンへの民生支援に切り替え、向こう5年間に50億ドルを拠出するというが、具体策はいまだ明らかでない。こうして、日本の安全保障貢献が目立たなくなる中、日米同盟には隙間風が吹き、中国の対日揺さぶりが激しさを増している。

中国は、南シナ海についで東シナ海の制覇を目指し、尖閣諸島をめぐって一段と攻勢に出たほか、インド洋にも覇権拡大の意図をうかがわせ、中東からの日本への原油輸送ルートすら脅かされかねない。

現政権が、このような情勢を客観的に見詰め、国際安全保障への貢献は一見遠回りでも、“旗を見せる”ことで日本への認識と信頼・親近感を深め、国際政治・外交の味方を増やして、日本の国益につながることを改めて認識するよう強く望みたい。


ほりうち・としひろ会員 1937年生まれ 60年NHK入局 ニューヨーク特派員 ジュネーブ支局長 外信部長 解説委員など 94年退局後 小平市教育委員長を務めた

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