ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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高松塚取材 完敗から起死回生(片山 正彦)2010年9月

飛鳥美人のカラー写真入手
「特オチ」という言葉は広辞苑に出ていないが、報道関係者でその意味を知らない人はいないだろう。共同通信は1972(昭和47)年3月、不名誉なそれをやってしまった。

間もなく入社5年目を迎える当時の私は、大阪支社社会部の遊軍記者だった。社史に残る特オチは、大阪支社が統括する奈良支局の管内で起きた。橿原考古学研究所が、明日香村にある高松塚古墳の発掘調査で、極彩色の壁画を発見したという大ニュースを、共同は落としたのである。『共同通信社50年史』は、特オチの経過を次のように記している。

●クラブ未加盟で大特オチ

「同研究所は発見から5日たった26日午後1時から、橿原市政記者クラブで報道機関に発表、27日付各紙朝刊はほとんどが1面トップ写真付きで扱った。NHK、民放も大きく報道した。ところが、共同は記者発表の日程を知らされておらず、スタートで完敗する。共同が橿原市政記者クラブに入っていなかったためだった。共同がこのニュースに気付いたのは午後9時半のNHKテレビ。早速追いかけたが、朝刊と夕刊段階にわたって後追い作業も十分でなかった」

『50年史』には続いて私が登場し、「スタートで後れを取った大阪社会部は、奈良支局と連携して中盤以降よく健闘、多くの特ダネを放つ。まず3月末に片山正彦が壁画のカラー写真を入手したのをはじめ…」と、起死回生の模様も記されている。

26日夜、NHKでニュースを知ったデスクは、慌てて先輩記者2人(3人だったかもしれない)を明日香村へ派遣した。しかし、当時大阪・社会部長だった故・松本克美さんは何を思ったのか、27日の夕刊作業が終わると1日足らずで先輩たちに引き揚げるよう命じ、代わりに泊まり明けだった私1人を現場に出した。

「ガッテンの松」と言われた松本さんは、頼まれたらイヤと言わず、部下の失敗の責めをかぶってくれるいい部長だった。後で松本さんから聞いた話だが「あの時は(社会部長の)進退伺を書いて、おまえに賭けた」そうだ。そんなことをつゆ知らない私は、完敗現場に1人で放り出され、面白くはなかった。

27日午後の高松塚古墳の周囲は、まだ興奮で包まれていた。社会部や文化部、写真部、それに系列のグラフ雑誌記者らも含めると十数人に上るスタッフを動員していた社もあった。それなのに共同の現場記者はたった1人だ。正攻法の取材では勝負にならない。ゲリラ戦しかない。

どうせ負け戦の尻ぬぐい役と思いつつも、当面の狙いどころは分かっていた。新事実が出てくるかどうかよりも大きな関心が寄せられたのは、いったいどんな色彩の壁画なのかということだった。極彩色と発表されたが、公表写真はモノクロだったからだ。

●早朝のたき火作戦

他社の記者たちが現場で発掘の指揮をとる網干善教関西大助教授(当時、06年死去)の言動を追い、見学にきた考古学者や作家に取材しているとき、私はタキギ拾いをしている発掘作業員(関大の学生たち)に注目した。彼らは「こんな所まで来て、枯れ木探しをさせられるとは思わなかった」とブツブツ言っていた。春とはいえ、屋外は寒かった。発掘作業は3月1日からたき火にあたりながら続けられていたのだ。

私は学生のグチを聞くとすぐ現場を離れ、明日香村の中心街に出向いた。学生のグチから、ある作戦がひらめいたからだ。燃料店を探し、一軒見つけた。店主に前金として1万円渡し、盗まれても雨でぬれても文句を言わないから、毎朝午前5時に店の前にマキを2束置いといてくれと頼み、引き受けてもらった。

まずはその足で夕暮れ迫る現場へマキを運び、たき火の世話を買って出た。「おたくどなた?」「共同通信の記者です」とあいさつ。「作業の片付けがあるし、助かります」「少しでもお役に立てれば光栄です」などと、何人かの学生や若手研究者と会話を交わせた。

翌28日早朝、私は二宮金次郎(尊徳)の銅像みたいにマキを背負い、まだ薄暗い中を、だれも来ていない高松塚古墳に足を運んだ。早出の作業員が現場に来た時にはたき火が勢いよく火炎を上げていた。

作業員たちは入れ替わり立ち替わりたき火にあたりに来た。私は動かず、火を見張る。たき火を囲んで話していれば、そのうち打ち解けるだろうという私の想定は正しかった。おまけに私は彼らが嫌がる任務を代行してあげたのだから、心を開いてくれるのも早かった。

「今晩、末永先生(橿原考古学研究所の初代所長・末永雅雄博士)のお宅で記者会見がありますよ」─と、ある作業員がそっとささやいてくれた。「何があったんですか?」と私が聞くと、彼は声を潜めて「カラー写真ができたんですよ」と答えた。「どこの写真屋で現像したんですか」と私。うまく交渉すれば事前に手に入るかもしれないと胸が高鳴った。

すると彼はすまなそうな顔をして「朝日新聞なんですよ」と教えてくれた。がっくりした。せっかく聞き出せた情報なのに、狙った“獲物”はライバル社にあるんだって? それじゃあお手上げではないか。

●盗みではなく借用

だが待てよ、と私は考えた。朝日で現像したことが分かったら、各社が1社だけに便宜を図るのかと抗議し、大問題になる恐れがある。末永所長と朝日の間で、内密に扱い、発表前に抜け駆けしないという申し合わせがしてあるに違いないと思った。ならば、何か手が打てるかもしれないと考えた。結果が出るまではネバー・ギブアップだ。

しばらくして、現場にいた各社に末永所長の記者会見の予定が告げられた。各社は夕刻、早めに現場取材を切り上げ、大阪府南河内郡狭山町(現・狭山市)にある末永所長の自宅に駆けつけた。私も借り上げのハイヤーで出掛けた。各社の記者は、会見予定時間の前にお宅に上がり込み、先着していた網干助教授と雑談していた。でも私は、家に上がらず、玄関の前に立っていた。

そこへ朝日の社旗をつけたオートバイがやって来た。私は運転していた若者に「写真できた?」と声をかけた。彼は「はい」と言って、積んできた包みを自主的に私に渡した。奪ったのでも盗んだのでもない。

私が「ご苦労さん」と言うと、彼はUターンして帰っていった。私は近くに待たせていたハイヤーの車内に飛び込み、写真のスライドの束を1枚1枚点検した。そして「きれいだなあ」と直感した2枚を抜き出して運転手に預け、急いで大阪支社に届けるよう頼んだ。私は自分の名刺に「○○○○○、××××(付記してあった表題)借用いたします」と書いて家中に入り、スライドの束と一緒に末永所長に渡した。

末永所長は名刺に目を落とすと一瞬顔を引きつらせ、私をじっと見た。私が見返すと、所長は青ざめた表情で軽くうなずいて会見を始め、カラー写真ができたと発表した。各社はあみだくじで1枚ずつスライドを選び、慌ただしく飛び出していった。

私は余裕でその場に残った。私が帰らないのを不審に思った日経の記者も残った。そのとき網干助教授が「先生、婦人像はどうしたんですか?」と末永所長に聞いた。所長が「ああ、あれか、共同通信に貸した」と答えると、網干助教授は「えっ」と絶句。「何ですかそれ?」と日経記者が質問すると、「1番きれいなやつですよ」とつぶやいた。

7色で彩られた飛鳥美人の群像は、朝日のほか、共同加盟紙の日経や京都新聞の紙面を飾り、切手にもなった。私はその後も早朝たき火起こしを続け、貴重な金具(宝相華文)の発見など、特ダネ情報を得た。

借りたスライドを返却したら、末永所長は借用書代わりの私の名刺を送り返してきた。今は亡き所長直筆の書留封書は大事にとってある。


かたやま・まさひこ 1945年生まれ 68年共同通信入社 社会部次長 大阪・社会部長 編集局整理部長 ニュースセンター副センター長 新本社ビル移転対策室長 本社ビル運営センター長などを経て退社 現在 駒澤大学マスコミ研究所研究員
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