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リクルート贈賄工作(菱山 郁朗)2010年8月

隠し撮りの舞台裏
昭和時代末期の1988(昭和63)年の夏、朝日新聞がスクープした疑惑が世上を賑わせていた。バブル景気に浮かれた拝金主義の風潮と自民党超長期政権の歪みである政官財癒着構造が産み落とした「リクルート疑惑」である。

その最中、竹下登政権は消費税の導入に内閣の命運をかけていた。私は編成局勤務を終えて、5年ぶりに報道局政治部の野党キャップとして現場に復帰したばかりだった。真夏の国会で社会党の土井たか子委員長は「この国会は、“リクルート国会”だ。真相の解明に全力で取り組む」と意気込んだが、解明が進まないまま、お盆休みに入った。

雨の日が多かった夏の終わりの8月30日昼過ぎ、閑散とした国会内でポケベルが鳴った。「楢崎議員が会いたいそうです。議員会館に連絡してください」。記者会館の留守番役の女性がメッセージを伝えてくれた。

楢崎弥之助議員とは、彼が77年に社会党を離党し、翌年社民連を結成したころから昵懇の間柄だ。落選中の3年前に死去した夫人の通夜の席にかけつけたことに恩義を感じてくれていた。「国会の爆弾男」と言われ、数々の鋭い質問で政府を攻め立てた。

●「立証したい、協力してくれ」

「俺もなめられたもんだよ」。楢崎議員はつぶやくように語り始めた。リクルートコスモス社の松原弘社長室長から再三にわたって現金の授受がなされようとしたこと、そのために博多の自宅まで押しかけられたこと…衝撃的な事実が次々に明らかにされる。「リクルートはメチャクチャな会社だ。贈賄を立証したいので協力してくれないか」と告げられた。

私は直ちにデスクに連絡し、経過を報告。贈賄の密室工作現場の取材に着手することが決まった。

特殊小型カメラが楢崎議員の宿舎の和室のテレビの下のラックに、マイクが食卓のガラスケースの脇に、布で覆った状態でそれぞれセットされ、カメラマンと音声ディレクターはベランダで待機した。

午後6時丁度、松原室長はタクシーで宿舎に乗り付け、台所のフロアで二人は向かい合った。しばらく雑談した後、緊張でこわばった室長の口から「政治活動には非常にお金がかかるわけでございますので、一生できる限りのご奉公をさせていただきたいと存じます」と賄賂を申し込む言葉が出た。

楢崎議員は「疑惑の解明は国会の責任だ。他の政治家と一緒にされたらたまらん。(リクルートと)刺し違える覚悟はできている」とすごんだ。

3日後の9月2日午前、松原室長から楢崎議員に「お会いしたい」との電話が入った。楢崎議員が代理人の松林詔八弁護士に相談すると、「向こうが会いたがっているなら会った方が良い。その際もう一回ビデオを撮れないか、現金を持ってくるかも知れないし…」とのアドバイスが返ってきた。翌3日、二人は再び議員宿舎で会うことになった。デスクに連絡し、前夜のうちに小型特殊カメラをセットするよう手配した。

室長は3日の午前11時、タクシーで再び訪れた。右手には白い紙袋を持っていた。

「些少で恐縮ですが、先生の勤続25周年のお祝いの志として、お受け取りいただきたいと思いお持ちしました」と、紙袋から封筒を取り出した。

「なんですかこれは、えらい大きいやないか、わぁすげーやー」。封筒の中から現金の札束が5つむき出しになる。贈賄工作の決定的証拠をテレビカメラが撮影した瞬間であった。

楢崎議員は「あのねぇ松原さん、貫一とお宮の話を知っとるやろ?米俵を雀の前に置いても雀の口は小さいから一粒一粒しか食べられない。我々は身分相応の生活をしなきゃいかんのだ」。尾崎紅葉の『金色夜叉』の一説で相手を諭し、現ナマを突き返した。

●放送にゴーサイン、激励と批判

9月5日は朝から事態が動いた。午前9時、営業局から「ビデオの放映を中止して欲しい」との要望が報道局に伝えられた。

隠し撮りされたことを察知したリクルートが、ビデオの放送を中止するよう求めてきたのだ。当時リクルートは強力なスポンサーで、社内の判断は揺れに揺れたが、高木盛久社長は「営業の立場は理解できるが、取材した以上放送しないわけにはいかんだろう」と、最終的に放送にゴーサインを出した。

午後3時半、楢崎議員は国会内で記者会見し、贈賄工作を受けていたこれまでの事実経過を明らかにし、リクルートを告発する用意があると表明。「国会ではもうリクルートのリの字も出ない。真相解明のため、こういうやり方は好きではないが、具体的な証拠があると受け取ってもらっても結構だ」と明言した。

この日、日本テレビ夕方ニュースの朝刊ラ・テ欄の予告記事には「リクルート疑惑に衝撃の新事実、これが政界の実態」とあった。前夜からビデオ放映への態勢は敷かれていたのだ。

オンエアの時間が刻々と迫り、報道局内には緊迫した空気が流れていた。直前に取材した野党議員や評論家、リクルート社員などのインタビューコメントも用意された。報道倫理上の配慮で取材当事者にはモザイクがかけられ、音声も加工された。

午後6時、「ニュースプラス1」のオープニングが流れる。「日本テレビがリクルートコスモス社による政界工作の、まさに決定的瞬間の取材に成功しました。登場人物は社民連の楢崎弥之助議員…」。徳光和夫キャスターの声は弾んでいた。

放映後、「よくぞ暴いてくれた」との激励の声が多数寄せられたが、「まるでオトリ捜査だ」と批判的反応もあった。風当たりは厳しかった。私を見ると「カメラはないか、カメラはどこだ」と冷やかす人もいた。警戒されたり、恨まれたりもした。でもへこたれなかった。

9月8日午後、楢崎議員は東京地検を訪れ、リクルート社江副浩正前会長ら三人を贈賄罪で告発。これを受けて検察当局は動き出した。リクルート本社への強制捜査に着手し、やがてNTTや労働省、文部省ばかりか政界の中枢をも巻き込む、大きな疑獄事件へと発展していく。楢崎告発は、リクルート事件の真相解明への突破口を開き、政局流動化や政界浄化、政治改革を求める世論の形成に影響を与えた。

しかし、その後ビデオが特捜部によって押収され、報道の自由が揺らぎかねない困難に直面したり、捜査の進展によって事態が急展開を見せていく中で、私の胸中には次第に辛く重いものが淀んでいく。

●今も引きずる胸の“痛み”

なぜなら、疑惑の中心人物とされた中曽根元首相や、逮捕・起訴され有罪が確定した故藤波孝生元官房長官は、実は政治記者として中曽根派を担当して以来、親しくさせてもらっていた政治家たちだったからだ。

中曽根元首相は82年の行政管理庁長官だった当時、「風雪人を磨く」という色紙を贈ってくれて、私の家族全員は日の出山荘を訪ね、泊めてもらった。子どもが好きで、私の末娘を抱いた姿はいかにも好々爺であった。子どもたちは彼に親近感を持ち、テレビに映るたびに「あっ、中曽根さんだ」と言ってはしゃいでいた。

藤波元官房長官も、議員宿舎をたびたび訪ね、何度か日本テレビが経営する新宿のゴルフ練習場に通った仲だった。元高校球児の彼のスウィングはまるでバッティングのようで、当たると真っ直ぐ遠くへ飛んだ。帰りがけに最高級の松阪牛のすき焼きをご馳走になったこともあった。

私にとってリクルート報道は、乾坤一擲の大スクープだなどと胸を張ってはいられない。今も心に重い痛みを引きずっているのである。

私が一時在籍していた編成局では、一般視聴者の目線や庶民感覚を重視しなければ、仕事は成り立たないということを叩き込まれた。だからもし私が、その体験なしにずっと政治記者を続けたままリクルート政局の取材に当たっていたら、贈賄工作現場の隠し撮り報道などとても恐ろしくて、手をつけることはできなかったであろう。

若気の至りと正義感、そして言わば「すっぴん魂」がなせる技であったと言えようか。

追記 ビデオ放映は報道局の高村勇作ニュースセンター次長(当時)の英断と行動力がなければ成し得なかったであろうことを付け加えておきたい。

ひしやま・いくお会員 1944年生まれ 68年日本テレビ入社 政治部長 解説室長 世論調査室長などを務める 2004年退社
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