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ダライ・ラマ14世会見記(大島 信三)2010年6月

ラサ脱出の一行に危機一髪の時
1989年、ダライ・ラマ14世にノーベル平和賞が授与されることが決まった。天安門事件の直後だけに大きな話題となったが、産経新聞外信部では相馬勝記者を中心にインド北部ダラムサラ入りを目指して動いていた。ダラムサラには14世の仮宮殿とチベット亡命政府があった。14世単独会見の見通しが立ち、相馬記者と芹沢伸生カメラマン、そして幸運にも私も指名されてこの年の秋、ニューデリーへ向かった。

当時、私は特集部で「話の肖像画」というインタビュー欄を担当していた。14世との会見が実現した場合、チベット問題を追う相馬記者が今日的なテーマを質問し、私のほうは幼くして法王に選ばれた経緯、チベット動乱やラサ脱出といった波乱に富んだ青年期の話を聞き、この欄に掲載しようという段取り。ほかにルポなどの企画も抱えていた。

ニューデリーから標高1900㍍のヒマラヤ山麓ダラムサラまで540㌔。車で12時間かかったが、ゾウやラクダなどが行き交う街道はまるで野外動物園のようににぎやかで退屈しなかった。現地に着いたのは夜。星空がぐんと間近に広がり、暗闇からサルがふいに近づいたりして、どことなく西遊記の雰囲気であった。

●謁見の間の“聖と俗”

時の人との会見はすんなりと事が運んだわけではないが、ともあれ1989年10月下旬、山頂の景勝の地にある仮宮殿、テクチェン・チュリン宮殿を訪れることができた。テクチェンは大乗、チュリンは修行の意。インド兵によって厳重な警備が敷かれ、2人の警備官が別々に念入りにボディーチェック。シャープペンシルの先まで調べられた。

通された謁見の間の入り口のすぐ右側に大きな地図が掲げてあった。チベット全図である。左手壁面には金色に輝く仏像。観音菩薩だ。歴代ダライ・ラマは観音菩薩の化身と考えられている。仏像と地図はチベット民族の“聖と俗”、すなわち宗教的かつ世俗的な最高指導者の立ち位置を表している。

どちらかといえばローマ法王と似ているが、継承の仕方は全く違う。チベット仏教の場合、先代の死後に誕生した幼児の中からさまざまなヒントを頼りに生まれ変わりの後継者を探しだす。こういう独特の転生相続制度が16世紀以来つづいている。

エンジの見慣れた僧服で現れた14世に生い立ちから尋ねた。

「私は1935年、チベットの東北部ド・カム(現在の中国の青海省)にあるタクツェル村で生まれました。ごく普通の家ですよ。もう残念ながら家はありません」

数年前、青海省の省都・西寧の郊外を車で走っている時、ガイドが、「ここから車で2時間のところにダライ・ラマの生家があります」と教えてくれた。その西寧からラサ(チベット自治区省都)まで1956㌔。「天空列車」で26時間もかかる。

後継者を探すラサの僧侶一行が遥々生家までやってきた。彼らは亡くなった先代の遺品を偽物と混ぜて、目星をつけていた幼児に見せた。

「私は間違わずに13世の所持品を選びました。あとで母から聞いたのですが、調査団が家に来たとき、私はとても喜んで『皆さんはセラ寺のお坊さんですね』と言ったそうです。私が2歳か3歳の時です」

1939年6月、4歳の男の子は2頭のラバの背にくくりつけられた輿に乗ってラサへ向かった。到着まで3カ月と13日かかったという。

●「私の友人は清掃員」

異郷の仮宮殿の一角にポタラ宮殿の模型があった。あの模型はいまも置かれているのだろうか。2007年夏にラサを訪れ、本物のポタラ宮殿へ入ったとき、ダラムサラで聞いた14世の言葉を懐かしく思い出した。

「小さい時の私の友人は清掃員でした。ポタラ宮殿やノルブリンカ離宮の掃除をする人たちととても仲がよかった。彼らとよく遊びました。私は子どもで彼らは大人です。けれどもこの人たちは、子どものように私と遊んでくれました」

「ポタラ宮殿にはさまざまな施設がありました。寺院、僧坊、法王府政庁、学校、それに地下には牢獄もありました。私の居室は上層のほうにありました。少年時代の私の居室は古色蒼然とした部屋でした。薄暗いその部屋はもう300年くらいは経っていたかもしれません」

薄暗い法王の居室はバターランプと線香で黒々とし、ネズミがたくさんはいずり回っていたという。訪れたポタラ宮殿は、14世が語ったように住まいとしては居心地のよい空間とは思えなかったが、チベット文化の奥行きを感じさせる重厚なしつらえであった。そしてネズミではなく、多数の観光客がその部屋にひしめき合っていた。

世俗的な問題はすべて摂政がおこない、ダライ・ラマ14世はひたすら修行に明け暮れる日々も1950年11月から劇的に変化した。異例の若さで全権を委ねられたのだ。このとき弱冠16歳。「未熟だから」と辞退しても聞き入れられなかった。中国軍の進攻にチベットは混乱し、もはやダライ・ラマしかこの民族をまとめることはできなかったのである。

1954年7月、中国全国人民代表大会に出席のため、14世は北京を訪れた。毛沢東と周恩来にどういう印象をもったのか。ずばり聞いてみた。

「毛沢東は革命の真の偉大な指導者でした。その表現の仕方や身振り、考え方はとてもダイナミックでした。何度も会見し、どのようにして人と接するか、どのようにしてさまざまな意見を受け入れるか、最終的にどのようにして結論を導き出すかといったことを学びました」

「(周恩来は)毛沢東と違って大変ずる賢いと思いました。第一印象で、この人は大うそつきだとすぐわかりました」

世間一般とはちょっと違う評価には正直驚いた。この3年ほど前、毛沢東は朝鮮戦争で最愛の長男を亡くしていた。それが関係していたのかどうかはわからないが、マオは息子のような青年法王を親身になってもてなしたのだろう。

●ライフルを手に離宮を脱出

しかし中国との関係は悪化し、1955年暮れには東チベットで公然と中国軍に対する反乱が起こった。ここまで話がきたとき、14世は立ちあがってチベット全図をもとに説明を始めた。「チベットの人口は600万人ですが、こういうふうに中国はチベットを5つに分割しました」「そして1959年、ついにラサで反乱が起きたのです」と熱をこめて語った。

14世がノルブリンカ離宮を脱出したのは1959年3月17日の午後9時30分。僧服を脱ぎ、メガネをはずし、手にライフルを持った。母親と姉はカムパ族の男の着物を着て変装して先に出発した。数日後、約300人の一行が山を越えようとしたとき、中国軍の戦闘機が飛んできた。山は雪に覆われて真っ白だった。

「私たちの中には白い服を着ている人はだれもいませんでした。黒や茶色の服を着ていたので、とても目立ちました。攻撃されたら、もうおしまいでした」

まさに危機一髪だった。インタビューは2日間、新聞掲載18回分の長時間となったが、普段は柔和な14世もチベット動乱やラサ脱出にふれた時は、終始、厳しい表情であった。


おおしま・しんぞう 1942年生まれ 64年産経新聞入社 週刊サンケイ編集長 特集部編集委員 「正論」編集長 編集局編集委員を経て
09年退社
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