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「山中で小野田少尉の靴、発見!」(牧  久)2010年2月

それは私のボロ靴だった
第一報は厚生省援護局からだった。1972(昭和47)年10月20日朝。「フィリピン・ルバング島で19日朝、警官が元日本兵らしい二人を発見、撃ち合いになり、一人を射殺、他の一人は負傷して山中に逃げた。和歌山出身の小野田寛郎元少尉と東京・八王子出身の小塚金七元一等兵らしい」

終戦から27年もたって、まだ戦い続けている日本兵がいたのだ。私は当時、社会部遊軍のサブキャップ。夕刊の原稿を書きながら「現地に行かせてくれ」と何度もデスクに〝陳情〟した。編集局幹部のOKが出たのは同日夜。社会部の現場取材用リュックに妻に届けさせた下着を詰め込むと、翌朝、マニラ行きのNW機に乗った。リュックには非常用の食料や寝袋、懐中電灯、長靴などが入っている。2、3日の野宿もできる。

現場取材の成否は出足で決まる。1日遅れの出発に私はあせりを感じていた。フィリピンはマルコス政権下、戒厳令が敷かれている時代だった。マニラ到着は土曜日の午後。ルバング島はマニラの南160キロ、南シナ海に浮かぶ孤島である。島には空軍基地が置かれ、チャーター機で着陸するには空軍司令官のサイン入りIDカードが必要になる。すぐにマラカニアン宮殿に駆けつけたが、発行は月曜日の午後になるという。丸一日を棒に振ることになる。

●マニラから海路6時間

空が駄目なら、海を渡るしかない。マニラから車で2時間。バタンガスまで行けば「スピード・ボート」があるという。翌朝4時、外出禁止令が解けるのを待ってタクシーを走らせた。それは漁業用の小さなエンジン付バンカだった。「波も荒く危険だ」と尻込みする漁師に現金を見せて無理やり頼み込み、約6時間かけてルバング島へ。マニラを発つ前、「許可なしで島に渡る。島から送稿手段はない。当面は連絡を絶つ」と電話した。島に上陸して舟を返せばマニラに戻る手段もない。単身、島に渡れば、本社も応援要員を出すだろう、との読みもあった。

ルバング島に着くと、砂浜に銃を手に警官が待ち構えていた。「お前も日本のプレスアーミーか」。簡単な事情聴取が終わると、苦笑いしながら、日本救出派遣団のベースキャンプまで同行してくれた。柏井秋久団長ら派遣団は、数班に分かれてジャングルに入り、小野田さんの捜索をするという。私は柏井団長に捜査隊に同行させてくれるよう頼みこんだ。宿泊できる民家はすべて他社に押さえられている。東京から応援が来ない限りマニラに戻る手段もない。海水を浴びた服装のままの私に同情をしてくれたのか、捜索隊8人の中に私も加えてくれることになった。

夕方、比空軍のヘリでベースキャンプから南西約8キロ、小高い丘の「小野田作戦Aポイント」と名付けられた地点に飛んだ。小野田さんが射撃戦をして逃亡した地点から直線で約1キロのジャングルの中。小野田さんの兄、敏郎さんも一緒である。

私たちは丘の中央に日の丸を立て、手分けして枯れ木を集めた。夕日が沈むと、枯れ木に火をつけた。交代で携帯マイクを握り、ジャングルに向かって呼びかけることになった。まず兄の敏郎さん。「兄さんだ。寛郎、聞こえるか」と切々と訴え、小野田さんが好きだったという詩吟を詠じた。

私の番が回ってきた。「小野田さん、日本経済新聞の牧です。太平洋戦争は終わりました」。話し始めた途端、柏井団長からマッタがかかった。「小野田さんは日本経済新聞を知らないのではないか。彼が戦ってきたのは太平洋戦争ではない。大東亜戦争ですよ」。1941(昭和16)年生まれの私は、終戦時4歳。小学校の時から「太平洋戦争」と教わってきた。戦前の日経は「中外商業新報」だった。私はジャングルに向かって「お詫びと訂正」をした。そして、戦後の日本は高度成長を経て経済大国となり、東京・大阪間には東海道新幹線が開通、3時間で結ばれていること、などを大声で話した。

一順すると、古い歌を一曲ずつ歌うことになった。私は音痴な上に、戦前の歌も知らない。思いついたのは「炭坑節」だった。その夜は満月。山の端に大きな月が輝いていた。歌い始めたが、音程はずれに同情してくれたのか、全員が手拍子を打ちながら、声を合わせてくれたのである。「炭坑節」は満月が照らすジャングルに吸い込まれていった。

●恥ずかしながらの〝自供〟

翌日昼過ぎ、私は柏井団長にベースキャンプに戻りたい、と申し出た。連絡を絶ったままの私を本社は心配しているだろう。なんとか東京と連絡を取らねばならない。だが、一人で歩いて山を降りなければ、捜索隊に迷惑をかける。柏井団長は連絡役という名目で若い現地人ガイドをつけてくれた。道もないジャングルを約8キロ、4時間ほどかけてたどり着く。東京から応援に来た吉野光久記者が心配そうに待っていた。彼は私のIDカードも取得してくれていた。

その直後のことである。比空軍の捜索隊から「小野田少尉の靴、発見」という無線連絡が日本派遣団本部に入る。空軍はヘリでその靴を運んでくるという。脱ぎ捨てた靴の近くには、新しい脱糞もあり、その周辺に小野田さんがいると見て、捜索範囲を狭めている、というのである。間もなく靴と糞がビニール袋で運ばれてきた。カメラマンが一斉にシャッターをきる。

発表を聞くと、発見場所は私が下山してきた道筋ではないか。下山途中、東京から履いてきた古めかしい靴の底が抜け、歩けなくなった。靴は海水も吸い込んでおり、確かにボロボロだった。リュックの中に長靴が入っていたことを思い出し、履き替えた。その時、便意を催し、ブッシュの陰で脱糞した。恥ずかしながら、私は会見後、その事実を〝自供〟せざるを得なかった。だが、数社のカメラマンはすでにチャーター機でマニラへ。翌朝の数紙に「小野田さんの靴?発見」が写真付で掲載されてしまったのである。

●ベトナム空爆を誤解?

それから約1カ月、吉野記者と私は交代でルバング島へチャーター機で飛び、野宿することになった。救出派遣団は小野田さんの生活の痕跡さえ発見できない。陸軍中野学校出身の「残置諜者」は島の隅々まで知り尽くしていた。私は、島の木陰で青い空を見上げているうちに、小野田さんは当分、出て来ないだろう、と思い始めた。沖縄の基地を飛び立った米軍のB52爆撃機が毎日、定期的に南シナ海を南下していく。ベトナム戦争が最も激化していたころである。小野田さんはベトナム戦争を知らないはずだ。米軍は仏印(現ベトナム)や蘭印(現インドネシア)に侵攻した日本軍と戦っている、と思っているに違いない。

こんな結論を出すと、年末まで捜索を続けるという派遣団を後に、私たちはルバング島を引き揚げた。小野田さんが24歳の日本人青年と遭遇し、生還するのは1年半後の昭和49年(1974年)3月のことである。小野田さんは帰国後、戦争がまだ続いている、と思った根拠の一つとして、次のように書いている。

「朝6時と夕方6時、定期便のような米軍の飛行が目撃された。どうやらルバング島のレーダーサイトをチェックポイントとして飛んでいる。方角、時間から計算して仏印だ。米軍がこれほどの戦力を投入するのは、仏印方面で日本軍が再度、猛反撃に出たのだ、と私は確信した」(『たった一人の30年戦争』)。

出足は遅れたが、引き際の判断は隠れた特ダネだった、と思っている。40年近くも昔の話である。


まき・ひさし 1941年生まれ 64年日本経済新聞入社 社会部 サイゴン・シンガポール特派員 編集局次長兼社会部長 取締役総務局長 常務 専務総務・労務・製作担当 代表取締役副社長を経てテレビ大阪会長 09年日経顧問退任

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