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M・J・フォックスさんとの出会い(上村 幸治)2010年1月

ラッキー・マンに心揺さぶられて
2002年の暮れ、米国の映画俳優、マイケル・J・フォックスさんにインタビューすることになった。米国同時多発テロから1年余、イラク戦争がまもなく始まろうという時期だった。

当時、毎日新聞のニューヨーク特派員だった私は、テロがこの国に与えた影響について考え続けていた。様々な分野の米国人に会い、聞き取りを重ねていた。だから、ある人物から、フォックスさんに会わないかと打診されたときは、しめたと思った。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のコミカルな少年役を思い浮かべ、そのままの姿でテロについて語ってくれる光景まで、勝手に頭に思い描いた。

もっとも、フォックスさんが日本のメディアとの接触を考えたのは、そんなこととはまったく関係がない。そのころ彼は、パーキンソン病との闘いを描いた自伝『ラッキー・マン』の日本語版を出版しようとしていた。その宣伝のために、日本のメディアを利用しようと考えたのだろう。まあこのあたりは、取材する側とされる側の間で、毎日のように繰り広げられる駆け引きである。

私自身は、まず病気の話を礼儀として聞き、それからテロについてたっぷり質問すればいいと思った。記事はもちろん「テロで変わったアメリカ」である。病気と本の話は、記事の最後につければいい。そんなことを考えながら、指定されたホテルに入ると、予想しないことが次々に起きた。まずフォックスさんが、なかなか姿を見せなかった。代理人は「体調が悪くて、来れなくなったのかもしれない」という。最近、そうしたことがときどきあるのだという。それでは仕方ないなと半ばあきらめかけたとき、フォックスさんは姿を見せた。右足を引きずりながら、必死の形相で部屋に入ってきた。

■30歳で発症 壮絶な闘病生活

この時、彼はすでに41歳で、2年前には闘病のために俳優の仕事を退いていた。映画出演の時のようにメイクをしていないから、年相応の疲れた肌にしみとそばかすが浮かんでいた。しかし、続いて始まった話は、そうした様子以上に衝撃的だった。まだ30歳で発症した時、フォックスさんはどうしていいのかわからなくて、取り乱した。そして「妻が自分のもとを去ってしまうのじゃないか」という、恐怖に似た感情に取りつかれてしまったという。

いきなり夫婦の微妙な話を聞かされ、私はいささか戸惑った。思わずフォックスさんの顔をのぞきこんでしまった。しかし、彼は気にするような素振りも見せず、話を続けた。 「酒におぼれるようになった。酒の量自体は減ったけど、飲み方が嫌な感じに変わった。陰気に、人に隠れて、ぼくは酒を飲んだんだ。夜中に一人、飲み続けたんだ」。ついには夫人から、本当に愛想をつかされそうになった。夫人に強い口調でなじられたという。「これがあなたの欲しいものなの? こんなことが、あなたのなりたかったものなの?」

それからは、酒をいっさい飲まなくなった。しかし、それで症状が変化するわけでもない。

パーキンソン病は神経系の難病で、手足がしきりに震え、動作がにぶくなっていく。完全な治療法はなく、やがて顔の筋肉がこわばって無表情になったり、身体を動かせなくなる。フォックスさんの場合、最初に左手の指がぴくぴくと勝手に動き出したという。まもなく、症状は左半身に広がっていった。

薬を飲めば、震えを抑えることはできる。しかし、あくまで一時的なものでしかない。そのためフォックスさんは、脳の手術を受けた。すると左手足の震えはおさまったが、今度は右半身に症状が出るようになった。「薬の副作用で絶え間ない不快感と運動異常に苦しんだ。食欲がなくなり、家族と一緒の食事を避け、風呂場にこもるようになったこともある。毎日毎日、何時間も浴室にこもり続け、震える左手をこぶしで殴り続けた」

発症したのは、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の第3作が公開されたころだった。病気のことを家族やごく親しい人以外に知られたくなくて、隠し続けた。映画「ラ
イフ・ウィズ・マイキー」(1993年) 「バラ色の選択」 (同)「アメリカン・プレジデント」 (95年)といった作品は、闘病生活の最中に撮影されたことになる。

「ズボンのポケットに薬を入れて持ち歩き、撮影の合間に飲んでいた。そうやって7年間を過ごした。これ以上隠していると心まで病気になる、もう潮時だと思った。それで98年12月に、パーキンソン病だということを発表したんだ」

そして、フォックスさんは立ち直っていく。立ち直ったから本を書いた。ただしそうはいっても、何か劇的な出来事があったわけではないという。

「少しずつ自分が変わっていった。特別のきっかけがあったわけじゃない。簡単に地図でたどれるような自己発見の旅じゃなかった。自分が変わる時期が自然にぼくの人生に訪れたんだと思う。そのために、ずいぶん長い道のりを旅しなければならなかった」

私はテロに関する情報を整理し、いくつもの質問を用意してインタビューに臨んだ。そして実際、テロの話も聞いた。しかし、そんなことはもういいと思った。フォックスさんの闘病の話、本の紹介で紙面を埋めてやろうと考えた。同業者から、なんだ本の宣伝か、と言われてもいいと思った。彼の苦しい闘いと、飾らない話しぶりに心を揺さぶられたからである。それが報道に値する内容だと判断したからにほかならない。

記事を書いてしばらくたった後、私は大学の教員になった。学生にこの時の記事を読ませ、取材の裏話を聞かせるようになった。報道と宣伝のきわどい境界について議論するようにもなった。「新聞記者って、予想もしない感動にめぐりあうことがあるのですね」と聞いてくる学生には、こう答えている。「記者をしていると、驚いたり心を揺さぶられることが実は頻繁にあります。取材をすると予期せぬことが、しばしば起きます。だから取材は面白いのです」

■心揺さぶられて励まされて

さらに年をとって、私自身も病を経験するようになった。そうなってから取材ノートを読み返すと、また新たな感慨が湧いてくる。30歳からの闘病生活というのは長いな、つらいだろうなと思う。いま、もう50歳近くになって、どんな心境になっているのだろうと、あれこれ想像することもある。そしてノートに記された、以下のような彼の言葉にあらためて感心したり、励まされたりしている。

「病気はぼくを強く鍛えてくれた。人生に対する知恵を授けてくれた。そして、他人に対する同情心も育ててくれた。もう、金銭や知名度で幸福を左右されることもない。結局、最後はみんな死ぬんだということを、心で受け止めることができた」

「いまは自分の残りの人生が、はっきり見渡せる。一番大事なことは、自分で納得できる、充実した人生を送ることだ。病気はそういうことをぼくに教えてくれた。病気にならなければ、これほど深く、豊かな気持ちにはなれなかったろう。だからぼくは、自分のことをラッキーな男だと思う」



かみむら・こうじ会員 1958年生まれ 80年毎日新聞社入社 香港 北京  ニューヨーク各特派員 ニューヨーク支局長 中国総局長を経て 獨協大学国際教養学部教授 訳書に『周恩来秘録 上下』
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