ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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万物流転すってんコロリ(轡田 隆史)2009年9月

“歴史の現場”に立ち会って
その時は諸般の事情があって紙面に書くことはできなかったが、いまこそ明らかにしよう! 真相はこうだったのである。

なんていう話があればいいのだけれど、ぼくはその手の取材がまったく不得意で、真相なるものに肉薄した経験はほとんどない。

                         ○○○

そんなことより、小さな船に乗って、東京~南太平洋~南極海の、4カ月半にわたる航海で、ウイスキー3ダースを飲みほしたのに、ほとんど原稿を送らなかった話だとか、イラン入国のビザ待ちのため、アテネで1カ月遊び暮らした、といったたぐいの話ならいくらもあるけれど、その前にちょっぴりマジメな自戒まじりの話をさせてください。

昭和34(1959)年春、朝日新聞盛岡支局で記者生活をはじめてから、ちょうど50年たつのだから、それなりにいろいろな取材を経験した。

仲間に「無礼者!」と怒鳴られて

そのなかから、実際に現場を踏んで、2009年のいま現在も、深い意味では終わっていない、というよりもむしろ、いまや最も新しい問題となっているようなできごとを、古い順に、思いつくままに列挙してみるならば、

◆岩手県小繋の入会権闘争。このほどドキュメンタリー映画『こつなぎ』(周・映画社、中村一夫監督)が完成した。人権、林業、里山の再評価などにとって、古くて新しいテーマ。

◆岸内閣の官房長官、椎名悦三郎派の大規模選挙違反事件。出納兼総括責任者が行方をくらましたままでいるとき、官房長官になり、故郷の岩手に錦を飾った。

記者1年生でサツ回りのぼくは、県政記者会の会見にもぐりこんで、「お祝い会見」が終わるや、「出納兼総括責任者が行方不明の事件についてお尋ねします」と質問した。

長官は顔を紅潮させると席を蹴って立ち去った。ぼくは県政記者たちに「無礼者!」と罵倒された。

この体験はぼくにとって、ひとつの原点になった。選挙違反だろうと何があろうと、いったん要職についてしまえば、ジャーナリズムはそちらを既成事実として追認してしまうのである。

「既成事実の追認」こそ、「真珠湾攻撃」以来の、日本ジャーナリズムの「特技」なのである。

いまだって、そう。はなから資質も資格もないのは明白な人物が、総理になったり大臣になったりする。なっちまえば、ハイ、それまでよ。新聞は、既成事実として追認しては、低級な政治を育ててきた。

もちろん奮戦する記者もいるけれど、わたしたちは、事前に「ペケ」を「ペケ」です、と国民に伝える方法を、いまだ発明していない。

その点ではテレビは強い。昨今の政治家の人相のテイレツなこと、ひどいものだが、記事でそうは書けないけれど、テレビには丸ごと出てしまう。記者会見のテレビ中継で、記者たちが甘い質問ばかりする姿も、丸ごと出てしまう(官邸のブラ下がりで、女性の記者の食らいつきに、感動したことはあるが)。

○終わりなく新しい始まり

◆吉展ちゃん誘拐殺人事件。ぼくは抜かれまくって、みごとに事件記者落第。ネタを求めてとりすがるぼくを、虫けらのように無視した刑事・平塚八兵衛が先だってテレビ映画になった。子どものいのちは、いまも薄氷の上にあり。

◆東京オリンピックから南極海の航海へ。鯨資源の調査のため。まだ通信衛星もなかったから、連絡手段は無線電信のみ。氷山の氷のオンザロックをやりながら。

◆復帰前の沖縄へ。いまなお県民の人権は、米軍、日本政府に踏みつけられ、国民の関心も低い。

◆第1回国連人間環境会議(ストックホルム)。捕鯨問題の紛糾、水俣の患者たちの参加。どちらも、いまなお深刻だ。

◆パレスチナ解放人民戦線の岡本公三ら、イスラエルの空港で自動小銃を乱射、26人を殺害。血の跡もなまなましい現場に入る。

◆ミュンヘン五輪選手村のイスラエル選手宿舎にパレスチナ・ゲリラ侵入。最終的に人質、ゲリラなど14人死亡。わが敬愛する先輩、読売の永井梓さんと、記者村から選手村まで走った!

◆戦争末期のベトナムへ。空爆には誤爆も正爆もなく、ただ無差別爆撃があるのみと知る。いまアフガンもその典型だ。

◆ホメイニ革命に緊迫するサウジアラビアやイラクを経てアメリカ大使館占拠のテヘランに入る。黒沢明の傑作『七人の侍』で、ペルシャ語をしゃべる三船敏郎に映画館割れんばかりの声援。村を襲う野武士はアメリカという見立てらしい。

◆ハノイで、米軍・枯れ葉作戦の犠牲者、生まれたばかりのベト・ドクちゃんに会う。

◆ベイルートのパレスチナ難民キャンプで、イスラエル軍に援護されたキリスト教右派民兵が、難民数千人を虐殺。分厚く凝固した血の海を歩く、その感触!

◆88年、シルクロードの古代都市王国・楼蘭の遺跡に立つ。オアシスの町でウイグル族と漢民族の対立感情を実感する。いまは流血。

◆東西ドイツ統一の瞬間を、ベルリンで百万の群衆とともに迎える。シャンパンのラッパ飲み・回し飲みをしながら。

こうして列挙してみると、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスではないが、「万物は流転する」。

パレスチナはもちろんのこと、どれも終わりどころか、いままた新しい問題の始まりではないか。その流転に、ジャーナリズムはいつも乗り遅れているみたい。

○バブル時代のいい気な話

さて、遊んだ話だ。4カ月半の航海は、電話のないツートントンの旅だった。なるべく原稿を書かないでくれという、船の通信技師の願いにスナオに応じたまで。

船室に持ち込んだウイスキー3ダースは、船長たちとの晩酌にはかなく消えた。氷山の氷は、何万年も昔の空気をとじこめている。それがはじけて、かそけき音を鳴らす。白夜に輝く氷山に乾杯!

イランのビザ待ちのアテネの1カ月は、遺跡めぐりはもちろん、オペラまで見た。木造3層の小屋は古風で優雅だった。プッチーニの『ラ・ボエーム』の悲劇のミミ役の歌姫はすごい美女だった。

いい加減にしろ、いい気になりやがって、という声が響いてくるのでもうやめよう。「書いた話 書かなかった話」という分類ならば、遊んだ話は後者ということになる。

「バブル時代」の「いい気な話」だから、何の参考にもならなかろうが、遊んだからこそいま、「書かなかった話」が書けるのである。

                            ○○○

戦後間もない小学生時代、極東軍事裁判を傍聴して、東條英機元首相をナマで見てこのかた、歴史の現場にずいぶん立ち会ってきた。

すべては古くて新しい問題ばかりだ。歴史がくり返すのではなく、人間そのものがくり返すとの想いしきりである。


くつわだ・たかふみ会員 1936年生まれ 59年朝日新聞入社 宇都宮支局長 社会部次長 編集委員 論説委員など 88年から96年まで夕刊一面コラム「素粒子」を担当した 99年退社 現在 テレビ朝日のニュース番組「Jチャンネル」でコメンテーターとしても活躍

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