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長嶋と王が「クビになった日」(菅谷 齊)2009年7月

─華やかなプロ野球のもう一つの顔─
プロ野球は華やかな世界である。大勢のファンを球場に集め、ビジネスとしても成り立っている。その隆盛をもたらし、象徴でもあったのが長嶋茂雄と王貞治だった。そんな最大の功労者も賞味期限が切れたと判断されれば、ようしゃなく放り出される。長嶋と王はともに監督のとき“クビ”の憂き目にあった。その非情はプロ野球のもう一つの顔でもある。

私は共同通信の現役記者時代に解任された二人を最前線で取材した。両雄の「クビになった日」はどうだったのか。

●長嶋の不覚 解任の外濠が…

1981年10月21日、午前6時55分。野球人にとっては超早朝時間に電話をかけた。すぐ受話器が取られ、取材相手が直接出た。

「監督、解任の情報があります。事実ですか…」「ああ、そのウワサなら、私も聞いているよ」

声の主は巨人監督の長嶋である。巨人は前日、ペナントレース最終戦(広島カープ)に勝って3位を決め、その日のうちに広島から帰京した。球団はすでに“長嶋解任”の最後の準備に入っていた。

「(解任は)あるかもしれないな。ひょっとするかもしれないから一応、予定稿を用意していた方がいいぞ」

予定稿とは解任のニュース原稿のことである。長嶋は球団のバックがマスコミであることから新聞社の中身に詳しかった。そして付け加えた。「午後に(巨人球団の)役員会がある。そこでひっくり返るかもしれないから、そこだけは注意しておいた方がいい」

長嶋の話し方は他人事だった。楽観的にも聞こえた。その根拠は球団幹部から、3位になれば続投、とささやかれていたことと、この長嶋茂雄を切れるものか、という自負があったからだろう。

続いて巨人の球団代表に電話を入れた。「巨人軍は、大英断、をした」との答え。天下の長嶋のクビが飛んだ─。信じられない出来事が現実となった瞬間だった。長嶋解任にマスコミ各社は慌ただしい動きをし、あっという間に全国に広がり、長い騒動に突入した。

巨人担当だった私が、おやっ? と思ったことがあった。夏休みが終わったころ、球団代表に秋季練習のことを尋ねたとき、あやふやな答えだったからである。前年秋、長嶋は巨人再生を目指して若い選手を「地獄の伊東キャンプ」(静岡県)で鍛えた。それが2年目の鍛錬予定が未定…。夏ごろからOBを含めた球団関係者の間で長嶋の采配への批判が強まり、秋には解任の流れが決まっていた。長嶋の一生の不覚である。

長嶋は解任会見(球団は辞任会見とした)で、充血させた目で正面を向き、声を絞り出して言った。「男のけじめ、です」。前夜から一睡もしていなかったのである。だから早朝の私の電話にすぐ出たのだろう。

●王の屈辱 シーズン中の解任通告

長嶋解任騒動のあおりを食ったのが王だった。この年限りで現役を引退したのだが、王の“男のけじめ”のビッグニュースが吹き飛んだ。22年間で大リーグ記録を上回る通算868本塁打、最初の国民栄誉賞(福田赳夫首相時代)。日本球界の誇る世界のバットマンの引退発表は長嶋騒動の余波で騒がしい11月4日と遅れた。その後、王はオープン戦で各地を回った。

私は王の衝撃的なシーンを目撃した。その最終試合、熊本・藤崎台球場での阪神タイガース戦のことだった。試合前、古ぼけた巨人選手の更衣室に入ると、その一番奥で木製ベンチに座って背を向けた王が帽子に顔を埋めて嗚咽し、栄光の背番号1が震えていた。公式戦の最終試合で「巨人軍は永久に不滅です」と絶叫し、ファンの涙の中で劇的な現役引退をした長嶋とは対照的な王だった。それでも最後の打席で広い右翼へホームランをかっ飛ばし、ホームラン王にふさわしい最後のスイングを見せてバットを置いた。

王は巨人監督としても悲惨な状況でその座を追われた。1988年9月29日の朝早く、私の自宅に信頼のおけるニュースソースから電話が入った。「王が辞める。今日、明らかになる」と。公式戦を4試合残した時点で「解任」を通告されたのである。王に電話を入れた。「そうなる」と解任を認めた。

夏の終わりごろ、王の監督続投についてさまざまな憶測が流れた。「続投」と報道したマスコミもあったが、内実は不確実だった。神宮球場に巨人が来たとき、王に直接尋ねた。王の返事は「監督については本社の決定事項なんだ。だから皆目分からない」。

そういう会話を交わしていたから、解任の情報を得たときは、解任については驚かなかったが、ただシーズン終了前の時期は信じがたかった。

この年、日本初の全天候型の東京ドームは完成。その元年に優勝することができなかったことも響いた。2位にもかかわらず球団幹部は「王では客が呼べない」と言った。

私は長嶋が解任されたとき、貴重な勉強をした。それは、長嶋は絶対にクビにされない、という思い込みが甘かったことである。長嶋でもクビになるのがプロ野球の世界、という現実を知った。だから王の場合は、そのときが来たか、と冷静に対処できた。

●ONの「それから」

長嶋は浪人して“文化人”と称された。ある年、大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の監督に就任の情報をつかんだ。大洋の関係者からで、そのとき「長嶋さんらしい入団会見をしたいのだが…」と相談を受けた。「入団会見を終えたら成田から米国に飛んでワールドシリーズ観戦というのはどうですか」とアイデアを出した。「大リーグ好きの長嶋さんらしくていいね」と大乗り気の返事だった。しかし、その話はすべて消えた。ある大物財界人に反対されたから、というものだった。その後、12年間の空白を経て巨人監督に戻った。

浪人中の王は「社会人の勉強をしたい」と前向きな姿勢を示した。王は単独でどこへでも出向く。いつも取り巻きと行動する長嶋とは好対照である。そんな王の親しい方から「王は巨人監督復帰にこだわってはいない。どこの球団でも話があれば聞く」と言われた。間もなくしてダイエー・ホークス(現ソフトバンク・ホークス)の監督に迎えられた。

長嶋ジャイアンツと王ホークスが2000年の日本シリーズで対戦したのがONの絡んだ最後の華やかな舞台だった。その後、長嶋は五輪監督、王はWBC監督となった。長嶋が倒れると、王も病んだ。そして今、リハビリに励む長嶋に対し、王はコミッショナー補佐となり、球界のボスとなった。主役交代の感がある。

ファンから反発を受けた長嶋、王の解任劇の中で、巨人は藤田元司を巧みに使った。監督を長嶋─藤田─王─藤田─長嶋とつなぎ、ONを打順のようにつなげることなく分断した。そのため両雄が比較されることはなくなった。大人の知恵、と思った。



すがや・ひとし会員 1943年東京生まれ 法政二高の硬式野球部時代に夏の選手権大会 春の選抜大会で連続全国優勝を経験 69年共同通信社に入社 運動部記者 プロ・アマ野球 大リーグなどを担当 ロサンゼルス五輪特派員 本社スポーツデータ部長 プロ野球記者会代表幹事 野球殿堂入り競技者表彰選考代表幹事 現在スポーツジャーナリスト

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