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昭和47春闘を一決(佐沢 利和)2009年6月

“黄門様”の深夜電話
春闘の時期になると“あの電話”を思い出す。茫々、40年近くも前、昭和47年(1972)春闘時の3月16日、時の外相福田赳夫氏(愛称・昭和の黄門)が“その筋”(たぶん、鉄鋼連盟会長のI氏だった)に、鉄鋼労連の賃上げ要求について再考を促す電話──おかげで、決裂寸前の労使交渉は、一夜にして経営側が大幅譲歩、組合要求を受け入れ妥結した。

この結果、労連執行部(宮田儀二委員長─中村卓彦書記長)が進めていた労使協調、生産性向上運動の“右派路線”も根付き、時とともに民間の全産業に波及して、日本は世界第2の産業大国へ巨歩を進める礎ともなったのだった。

この年の日本経済はニクソンショックから立ち直れず、鉄鋼業界は大手5社(新日鉄、日本鋼管、住友金属、神戸製鋼、川崎製鉄=社名は当時)が不況カルテルを結んで減産、旧型高炉はすべて休止している状態だった。

●内憂外患の右派執行部

こういう厳しい環境下での賃上げは至難とされ、労使交渉は難航に難航を重ね、労連側の「せめて前年並み」という最低限の要求もむなしく響くばかりで、経営側の最終態度決定日(3月17日)前夜を迎えた。

当時の労働界は総評と同盟が激しく対立、政党も階級政党論に立つ社会党が総評と、国民政党論の民社党は同盟と結びつく構図だった。鉄鋼労連は組合誕生の経緯などから総評に属していたが、この数年前に執行部は右派が左派を抑えて、同盟路線=労使協調、生産性向上運動(マル生)を推進していた。

いまでこそこの路線はごく当たり前で、すでに死語化しているほどだが、これに反対する総評の力は絶大。大宅壮一に「昔陸軍、いま総評」といわせたほどだった。その総評につながる左派は、春闘、賃上げの結果次第で組合執行部の奪還を狙っていた。

鉄は国家なり─に代弁されたこの時代、鉄鋼は基幹産業中の基幹で、春闘も、鉄鋼を一番バッターとして、他の産業はこれに追随するという図式だった。

内憂外患──窮地に立たされた労連執行部が秘中の秘、最後の切り札として考えたのが“黄門”の担ぎ出しだった。

●労働問題にも関心の福田外相

3月16日夜、もう零時に近かった。私は当時、霞クラブ(外務省)のキャップだった。受話器をとると、鉄鋼労連の中村君だった。

「何としても聞いてもらいたい話が起きた。これから10分後に外務省正門前に車をつけるので、詳しくは会ってから…」

私と中村君は陸士の同期(61期)で数多の畏友の中の1人だった。それにしてもこんな夜半に、労政担当でもない私に春闘前夜に?首をかしげながら3階の記者クラブから下り彼の車に乗り込むと、いきなり賃上げ交渉の状況を説明した後、組合要求の「前年並み」が通らなかった場合の路線問題に触れ、「ここまで来た以上、福田氏に頼るほか道はなくなった。私邸に同道してくれ」というのだ。

労連が福田氏に白羽の矢を立てたのにはわけがあった。第1にこの秋にポスト佐藤で争われる自民党総裁選では福田外相が本命視され、財界にも絶対的な支持があったこと。2番目は当時の自民党領袖の中では唯一人といっていいほど、労働問題にも深い関心と理解を示していたからである。労働に目を向けるのは野党だけで、自民党は経営側のみ、とすみ分けされていた。

≪福田氏はこの年の暮れ、鉄鋼労連を含めた日本の主だった民間労組の代表と、「愛宕会」という私的懇談会を立ち上げ、会合を重ねる中で、数々の成果をあげていった。側近として常に出席していた塩川正十郎氏は、平成8年(1996)8月号の「文芸春秋」巻頭随想欄に「福田赳夫先生と愛宕会」というタイトルで執筆、昭和48年(1973)のオイルショックで沈没しかけた“日本丸”を救ったのは、時の蔵相(田中内閣)福田氏と愛宕会協力の賜物だった──として師を讃えている≫

話を戻し、中村君の話を聞いていた私は、前段まではたかがゼニ、カネの問題か、ぐらいに思ったが、後段の路線問題に移ったとき、放置できないと決めた。「福田のオヤジさんよ、起きていてくれヨ」──祈るように記者クラブにとって返し、ダイヤルを回した。今なら携帯電話を持っているが…。

もう17日の午前1時に近かった。受話器をとったのは御大、ご本人だった。

「ニッポン国のため火急の用件で、鉄鋼労連の中村書記長と一緒にうかがいたい」「ホウ、ホウ、いま寝ようとしているところだが、すぐいらっしゃい」。

●ニッポン国のため「マル生」を

第1関門突破!そう叫びたかった。会えさえすれば何とかなる。そんな期待に胸をふくらませながら中村君の車に飛び乗った。

氏はちょうど開会中の沖縄国会でのマル生運動をめぐる社会党対民社党のサヤ当てに、「ニッポン国の将来のため」とマル生の必要性を強調していたからだ。2人を乗せた車は世田谷の福田邸へと突っ走った。

パジャマにガウンをまとった福田氏は「もうみんな休んでいるので、お茶も出ませんヨ」といいながら2階の寝室に通してくれた。

シーンと静まりかえった中で、中村君は陳情の趣旨を説明、路線問題に話が及んだとき、じっと聞き入っていた氏の顔がひきしまるように、私には見えた。

大きくうなづいた福田氏は「Iさんに電話してみましょう。ホウ、ホウ」と言いながら、電話を隣の部屋に運びダイヤルを回しはじめた。

「目先の話ではなく、ニッポン国の将来につながる話ですから…」「会社側の事情はよく理解していますがよろしく…」

I氏とのやりとりが断片的に伝わってきた。私と中村君は手に汗を握りしめ、じっと待った。約30分後、

「すぐに5社の社長会を開いて協議してくださるそうです。ホウ、ホウ」

ここまでくればもう大丈夫。私たちは胸をなでおろしながら深々と頭を下げ、辞去したときは、とっくに午前2時を回っていた。

他ならぬ“黄門様”の斡旋に鉄鋼連盟5社は未明の社長会を緊急招集、組合要求を受け入れ、前年並み(基本給6000円の引き上げと1700円の定期昇給計7700円)の賃上げを一決したのだった。ちなみに定昇分の1700円は、前年より200円近く高いのでこの年の総賃上げは「前年比200円アップ」という結果となった。

●小粒になった政・財界人

当時の新聞をめくると一夜の逆転劇に驚きの見出しが躍っており、「会社側が労連の右派執行部に配慮した」との解説が多い。しかし最も重視されたマル生運動に踏み込んだものは見あたらない。いかにマスコミが表層的なものか、自戒を含めて考えさせられる。

と同時に福田氏に見られた卓見。政治の深淵さ。そして呼応した財界人たち──国家的大事とあれば即座に行動、決断した先人たちに比べていまの政・財界人はどうか。

春闘と直接関係はないが、松下幸之助氏は、「松下政経塾」の初代塾長に労働界のリーダー、宮田儀二氏を招聘。その柔軟な思考性が実を結び、“宮田塾”からは逢沢一郎氏(自民)、前原誠司、野田佳彦(民主)氏等、与・野党にまたがる幾多の人材を輩出している。私にはいま万事、あまりにも小粒になったような気がするが。老人の繰り言と片づけられては心外である。



さざわ・としかず会員 1927年生まれ 54年産経新聞入社 地方部を経て政治部 首相官邸 自民党 野党 大蔵 外務省など担当 政治部次長 編集委員 79年退社 現在NPO法人理事長 著書に『新政治勢力の時代』『日本の分岐点』『政治部秘史』(共著)など。
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