取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
カンバミチコの名を10円玉で社へ(志甫 溥)2009年2月
あの朝の一本の白い旗
まだ取材記者でもなかったその夜のことは、年ごとに鮮明さが薄れ茶色味をおびていく古い写真さながらの不連続なシーンの記憶でしかなかったし、何も書かず、何一つ直接報じることもなかった一夜ではあったが、往事茫々なのにいつまでも自分の中に残っているセピア写真。
私は25歳、KRT(現TBS)に入って3年目で、報道局に所属し、主としてフィルムによるドキュメンタリー番組のアシスタントを務めていた。
ちょうどそのときは「世界建設の旅」というカメラマンひとりが各地をまわって撮影してきた建造物の16ミリラッシュフィルム(当時の海外取材番組での私の役割は、全く海外取材に行かず映し出される場所やモノについて専門家などの話を聞きまわり関連書物をあさって、フィルム編集・コメント書きを手伝うというものだった。戦後はじめてのチベット紀行番組も作ったが、戦後の参考書の著者は、どなたもチベットを見たことがなかった)を見続けていた。編集室の小部屋の壁に映し出されるダムや高速道路や各国のニュータウンの映像を見るのが私の日々だった。100フィートで3分のフィルムを2000尺見るときまって疲れた。
疲れると大部屋に出ていって、ニュース番組で、車に閉じ込められて無表情に全学連や労組の大群をすかしみているハガチーの顔や「キシヲタオセ キシヲタオセ」とはてしなく続く請願デモの映像を見たが、私はデモに加わることもなく、ニュースが終わるとアスワンハイダムの小さな画面にもどっていった。
○ ○
そのころ、セ・リーグは中日、巨人、大洋の順で打率は長島、桑田、飯田。パ・リーグは南
海、大毎、阪急で榎本、田宮、関根の順。同日に両方の好試合があれば、全国紙スポー
ツ欄の右側半分は六大学リーグ、左にプロ野球だった。
○ ○
15日の夕方、暗い小部屋から呼び出された。ニュース班が手一杯のため、国会南通用門の取材チームに弁当を届けることになる。“南通”から国会突入を全学連主流派がはかるという情報をもとに(あとでそう聞いた)、KRTテレビのささやかな取材陣は全部その場所に集まっていたから弁当はそこで配ればよかった。
弁当を届けた私は、取材用ジープにとりつけられたクレーンの上から、すでに南通前道路をうめつくした学生たちを眺めたりしていた。夕刻以降広い場所で16ミリフィルムの撮影をするときは携帯用照明では暗いので、フライヤーを焚くのだが、白い火花が強く散ると、学生たちの罵声が飛んだ。緊張感がつのる雰囲気の時間。
なぜ用事が済んだのに小部屋に戻らずにいたのか覚えていないが、突然私は、学生たちと一緒に国会構内に入っていた。それまで私は国会に入ったことはなかった。薄暗がりのなかでまわりの学生たちも、待ち構えていたはずの機動隊もほとんど見えず、ただ完全な静寂が支配する一瞬だった。芥川の「雀色時の靄の中」(芋粥)というのはこのことかと思ったりした。
あまりの静寂になにかのワナではないかという素朴なおそれをふともったのか、私は学生の間をぬって静かに構外に出た。
午後7時すぎからおびき寄せられた形のデモ隊と十分待った機動隊の衝突=放水と投石をともなう=が反復された激しい騒乱の場になるが、ラジオ所属の2人の同期生が、デンスケで機動隊に対峙する学生の録音取材をはじめた10時5分、「かかれ」の号令で襲いかかった機動隊に頭を割られて昏倒したという。他にも2人が傷つき、社は翌日警察側に抗議した。
女子学生が死んだ。女子学生の身元をつかむように命じられ、取材手帳も鉛筆も持たないまま、私は警察側の放水でずぶ濡れになって殺気だつカメラマンと、遺体が収容された飯田橋の警察病院に向かった。
病院玄関ロビーに集まった取材者たちが、横の事務局で電話を借りると、不機嫌な事務員に電話代10円を請求される。血を流して倒れている女子学生(それが死者ではないか?)の焼き付けたばかりの写真を、まわりに見せながら「ひどいねえ」と言っていた、人がよさそうな中年の記者にポケットにあった何枚かの10円玉を取り上げられた。最後の一枚で、10円玉・取材手帳・ボールペンをオートバイで届けてほしいと社に頼むが、その後も死者の身元は玄関一杯に座り込んだ記者の誰もわからないまま時間が過ぎる。
時折、立ち上がって地下の霊安室の扉の前でたたずんだりするが、またロビーに座り込んで何かを待ち続ける。激しい言い争いがおこる。いつの間にか入っていた学生たちがタスキをかけた野党議員らしい男たちをなじり、男たちが力のない大声で何か言い返す。そのうち同行のカメラマンとの口論になった男たちは何も得られぬまま出て行き、動きの成り行きをみていた取材者たちは、また座って待つ。
女子学生がひとり死んで、霊安室に遺体が安置されていることは間違いない。それは誰なのか、死因は?を知るために「何か」を待ち続けて夜を深めていく。
○ ○
そのころテレビはラジオを追い抜いて伸びていた。毎晩のようにゴールデンタイムには
アメリカのテレビ映画シリーズが放送されていた。いつも会社に泊まりこんでいたのに、
どうして、テレビ映画の細かい記憶があるのだろう。通常午前中に長い放送休止時間
があり、夜11時半には「お休みの前に」というフィルムで終わっていた。ナイターは巨人
戦だけでなく、夜8時から(7時からは子ども・家族向けで民放のドル箱)各局がナイター
中継をしていて、曜日によっては1晩に2、3試合同時に放送されていたようだ。
○ ○
「何か」がなんだったか残念ながら記憶にない。私は10円玉を手に立ち上がり社にカンバミチコの名前を伝えるため電話をかけた。すぐあとの『週刊読売』誌に掲載された児島襄の記録によると「東大農学部古島教授が身元を確認して、樺美智子の名前がラジオ、テレビで伝えられたのは、日づけが16日にかわった午前2時すぎであった」。
KRTテレビはその夜11時25分から午前1時まで続けた「死者を出した国会デモ」という特別報道番組を放送している。和歌森太郎、大浜信泉、池松文雄と鈴木茂夫報道部員が話した番組に私は全く関与していない。私が社に伝えた唯一の情報は、まだその番組の中には出ない。しかし放送は少なくとも私の電話で「カンバミチコ」の名前のスーパー速報を出すまで続けられていたのだ。
樺美智子の両親が飯田橋警察病院に駆け込んでこられたのは午前2時45分だったという。樺俊雄中央大教授夫妻を中心に取材者たちの渦が玄関ロビーから霊安室に向かって少しずつ移動していく。
ライトに照らし出されフラッシュを浴びながらゆっくり動くかたまりの中で、押されてよろけながら進む光子夫人の靴の片方が脱げかけた光景を目に焼き付けた私は、どこにいたのだろう。取材手帳の中の文字は樺教授の会見のメモだけ。
[突然なので考えがまとまらない/警官隊にいきどおり/まさか自分の子どもだとは思わなかった。真剣に思い詰めていた様子/今朝はいつもと同じ/男二人が上で末っ子]
○ ○
そのころ民間放送のテレビはまだフィルムと静止画とアナブースの朝・昼・夕・夜の定時
ニュース、もうひと枠は資本関係が深い新聞社が編集済みフィルムやアナ原稿一切を
持ち込んで局は放送するだけの10分程度の「**新聞」ニュースだった。通常全国紙
は朝刊18頁、夕刊が12頁。
○ ○
その場所での役割を終えてアブシンベル神殿の画を見る小部屋に戻るため病院から明けかかる外に出た私は、濡れそぼったよれよれの学生小集団がうなだれ身を寄せ合うように歩くのに出会った。1人が白い旗をかついでいた。その旗は、より過激により抑圧される次の10年のどこに進んでいったのだろうか。
有力新聞7社は17日朝刊に「共同宣言」を載せ民間放送連盟も同様の声明を出し19日に新安保は自然成立しアイクは来日をとりやめ岸首相は退陣する。
しほ・ひろし会員 1935年生まれ 58年ラジオ東京(現TBS)入社 報道番組AD 政治取材記者を経て テレビ編成課長 人事部長 報道局長 常務取締役 代表取締役会長 相談役などを歴任 現在 同社社長室顧問