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サダト暗殺事件 1981年10月6日(藤原 和彦)2008年10月

消された「イスラム原理主義犯行説」
サダト前エジプト大統領が暗殺され、世界に衝撃を与えたのは27年前。当時読売新聞カイロ支局員だった筆者は事件当日の原稿で「イスラム原理主義犯行説」を打ち出した。しかし、数日後カイロに届いた新聞を見て落胆した。「イスラム原理主義」の見出しがどこにもない。

新聞を見て、その理由も分かった。第一面に、エジプト軍内反サダト派の、実際は虚偽の犯行声明が大扱いされていたからだ。

●「死亡」─ロイターがフラッシュ

1981年10月6日サダト大統領はカイロ市東部で、第4次中東戦争を記念する軍事パレードを観閲していた。パレードの車列から4人の軍人が飛び出したのは午後1時前。観閲台に駆け寄り、最前列の大統領に銃弾を浴びせた。大統領はヘリコプターでカイロ南郊外の陸軍病院に運ばれたが、即死に近い状態だったらしい。しかし、政府は大統領の死を隠した。死亡の情報が世界に流れたのは夕方。英ロイター通信のスクープだった。

この日、筆者は自宅兼支局のテレビで軍事パレードを見ていて異変を知った。大統領の死が報じられた時は、カイロ中心部の古びたビル、その上階にあったフランス通信(AFP)の支局にいた。同支局の2つのテレックスのひとつを拝み倒して借り、事件(情報はまだ、大統領が襲撃され、負傷したという段階だった)の解説と雑感原稿を送り終えたところだった。テレックス回線の向こう側、東京本社外報部のデスクから大統領の死を知らされた。同時に、犯行組織や大統領の後継者など、考えをまとめて“生打ち”するよう指令された。

●「原理主義同調者の犯行」打ち出す

犯行組織については、既に解説原稿で「イスラム原理主義犯行説」を打ち出していた、生打ち原稿では、やや断定的にこう打った。文頭の「それ」は「犯行組織や背後関係」を指す。

「それについては今のところ、はっきりしたことは何も浮かんでいない。軍部内には先に弾圧されたイスラム教原理主義者の同調者がいたとの情報がある。このため第一には、その関連が考えられる。軍部の大きなグループによるクーデターではなく、一部の狂信的な原理主義同調者の犯行と考えられるところが大きい」

また、解説原稿では、こう書いた。なお、原稿中「イスラム同胞団」、「イスラム教会」、「タクフィール・アル・ヒジュラ」とあるのは「ムスリム同胞団」、「イスラム協会」、「タクフィール・ワ・ヒジュラ」の誤り。筆者の書き間違い、加えて、テレックスはローマ字送稿のため、しばしば受け手の“ほどき間違い”があった。

「(前略)サダト政権は、先月初め過激なイスラム教原理主義など国内の全批判勢力の弾圧に踏み切った(中略)弾圧された批判勢力はいずれもサダト政権の対イスラエル和平路線に強く反発していた。
 6日、カイロ郊外の軍事パレードでサダト大統領ら首脳殺害を図った軍人たちが、これら批判勢力とどのような関係にあるのかなど、今のところまったく不明だが、先月以来の弾圧の“主要対象”になったイスラム教原理主義勢力は軍部内にも支持者を増やしていたといわれている。

エジプト内で最も有力な反政府勢力とされたイスラム原理主義勢力は、前王制下に創設された『イスラム同胞団』、その学生・大衆組織とされる『イスラム教会』が中心。このほか77年夏、宗教相暗殺事件を起こして徹底的に弾圧され、サダト大統領への“怨念”を強めているとされた『タクフィール・アル・ヒジュラ』などのテロ組織に似た団体もある。このうち最近、勢力を急速に伸ばしていたのが『イスラム教会』で、エジプト内十七大学の学生評議会を握り、全学生の十分の一を組織したとも言われた。

イスラエルとの和平路線に強く反対し、サダト大統領の対イスラエル政策を『神の教えから逸脱した』と非難した若い指導者ヒルミ・ガザール(二十五)など、指導部は先月以来の弾圧で根こそぎ逮捕された(後略)」。

●AFP支局から送稿

筆者が「イスラム原理主義犯行説」を打ち出した理由は原稿にもあるように、大統領が事件発生の1カ月前同勢力を徹底弾圧したことにある。彼らは事件の2年前ユダヤ人国家イスラエルと和平条約を結んだ大統領を「カーフィル(背教者)」と呼んで、憎悪をむき出しにしていた。

さらに、原稿でも言及した過激なイスラム原理主義組織「タクフィール・ワ・ヒジュラ(断罪と逃亡の意)」の残党が大統領の命を何度か狙ったとの未確認情報も得ていた。しかし、確証はなにもなかった。

生打ちを終えた時、AFP支局長から「もういいだろう。テレックスを返してほしい」と言われた。実は、テレックスは「5分だけ」の約束で借りていた。先の2つの原稿執筆と送稿、そして生打ちと、数時間使っていた。朝刊最終版の締め切りにはまだ時間があったが、もう断れなかった。テレックス回線を切る直前、回線の向こう側にY外報部長が現れた。「イスラム原理主義犯行説(早版で)大きくやっているよ」と、告げられた。

この日夜、夕刊用原稿を打つため情報省に行く途中、日本大使館に立ち寄った。ムバラク副大統領(現大統領)の追悼演説内容を知りたかったからだ。夜も更けていたが、大使館に入るとすぐS事務官に出会った。アラビア語専攻の若いキャリア外交官。副大統領が犯人について何を言っていたか尋ねると、「ムタタッリフィーンと言っていました」との返事。この言葉は通常、イスラム過激派を指す。的をはずしていなかった、とホッとした。

事件翌々日の朝、珍しく外報部デスクから自宅兼支局に電話が入った。「イスラム原理主義犯行説」を送稿してほしいとの指示。「変だな。事件当日以来、繰り返し書いているのに」といぶかしんだ。が、詳しくは尋ねなかった。そして、数日後、航空便で届いた新聞を見て、不審は氷解した。第一面の副見出しに、エジプト軍内反サダト派の虚偽の犯行声明が使われている。記事自体も4段の扱いだ。一方、「イスラム原理主義」の見出しはどこにも見出せなかった。

●虚偽の犯行声明に振り回される

この声明が発表されたのは、朝刊最終版の締め切り間際だった。サダト大統領暗殺事件で発表された唯一の犯行声明でもある。外報部が、筆者の「イスラム原理主義犯行説」を誤報と判断し、まず見出しから「イスラム原理主義」の言葉を削ったのは無理がない。筆者にしても、この犯行声明を締め切り前に知ったなら、確証のない「イスラム原理主義犯行説」はあっさり落としていただろう。その結果「イスラム原理主義犯行説」は、見出しはもちろん紙面のすべてから抹消されていただろう。

さて、サダト大統領暗殺事件をめぐる筆者のドタバタ、その原因の多くが当時のカイロの通信事情の悪さにあったことを付記しておこう。まず電話だが、通信手段と言えるシロモノではなかった。信頼が置けたテレックスは支局兼用の自宅にはなく、情報省のテレックスを使わせてもらっていた。だが、大統領襲撃直後、情報省は軍によって閉鎖。そこで、飛び込んだのがAFPの支局だった。

さらに、届いた新聞で初めて自分の原稿の扱いを知るというブザマさ。確かに、外報部に確認しなかった筆者が悪い。しかし、通信事情が良かったら状況は違っていたろう。

最後に、事件当日送った筆者の原稿の間違いをもうひとつ指摘しておきたい。暗殺実行組織は「タクフィール・ワ・ヒジュラ」などではなく、別の過激なイスラム原理主義組織「ジハード団」だった。後に、同団残党の多くがアフガニスタンに渡り、国際的イスラム・テロ組織アルカーイダの幹部となった。アルカーイダは現在、ナンバー2のザワーヒリはじめ指導部の大半が旧ジハード団員。“再建ジハード団”とも呼べそうな実態だ。



ふじわら・かずひこ会員 1943年生まれ 東京外国語大学アラビア語科卒 69年読売新聞入社 カイロ(79─83) ベイルート(84─85) ローマ(86─89) 各支局員 カイロ支局長(90─94) 調査研究本部主任研究員など 98年退社 99年(財)中東調査会参与 05年『季刊アラブ』編集長
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