取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
30年前の特派員時代(田久保 忠衛)2002年6月
沖縄からワシントンへ
■“取材お断り”の看板に激怒
私が返還前の沖縄に那覇支局長として赴任したのは33年前の1969年であった。当時の沖縄は革新一色、その中でも沖縄教職員会は会長だった屋良朝苗氏を琉球政府主席に送り込み、政治的影響力大でまさに泣く子も黙る勢いを示していた。本土から派遣された記者たちは外国並みに特派員と称された時代で、沖縄教職員会に食い込まなければニュースは書けなかった。
ところが、現地に着いて取材活動を始めた直後に、沖縄教職員会の入り口正面に「時事通信那覇支局長取材お断り」の看板が立っているではないか。びっくりして調べたら、時事通信社が発行していた一通信文に、会の痛烈な批判が載っていたのが理由だという。
こちらも若かったから喜屋武真栄会長に抗議するなど猛烈に反発した。言論、報道の許されている社会でいきなり取材拒否はなかろう、とどなったのである。
「捨てる神あれば拾う神あり」というのであろうか。この話が一部に広まるや否や、琉球文化財保護委員会委員長の真栄田義見、画家で劇作家で鋭い政治評論を書いていた山里永吉、若かりしときに共産党員として活躍した仲宗根源和・琉球果樹園社長ら沖縄保守勢力でもそうそうたる人達と急に親しくなった。革新側はぼろくそに批判するが、私の付き合ったこれら保守派の人々はおしなべて琉球の古典、歴史、芸術などについて深い教養の持ち主で、強い個性を持っていたと思う。琉球の「ナショナリスト」たちだった。
本土復帰を前にして、これらの人々を中心に有力者の多数が「われわれは本土復帰を望まない」との政治広告を某全国紙に出そうと試み、果たせなかったいきさつを私は詳細に追った。「独立論」が底流にあったことは間違いないが、上っ面の活字による「沖縄の心」以外の心奥を私は沖縄教職員会のおかげで短期間に垣間見ることができた。
■米大統領専用機に同乗
1年ちょっとの沖縄生活のあと、私は社命でワシントン支局長として4年近くニクソン政権下の米国を報道した。
最大の思い出は、72年夏にハワイでおこなわれた田中角栄首相とニクソン大統領との会談であった。日本人記者団は会談の1週間前からカリフォルニア州サンクレメンテの別邸に滞在していた大統領をカバーしていた。昨年引退したUPI通信のヘレン・トマス記者が、あの大事件に発展したウォーターゲート事件の一番最初の質問を大統領にぶつけたときである。
ニクソン大統領がハワイに向けて出発する前日、ホワイトハウスのジーグラー報道官から「日本人記者のうち1名を代表取材者として大統領専用機に乗ってもらう」との申し入れがあった。早速協議に及んだが、記者である以上は誰もが乗りたいのだから、ああでもない、こうでもないと騒いでなかなかまとまらない。結局、2通信社のどちらかにすることになり、私と共同通信社の斎田一路氏(現社長)とが別室でジャンケンで決めることになった。
ところが、斎田さんはあっさりと、「田久保さん、あなたがお乗りなさい」と譲ってくれたのである。多少はこちらが年上なので花を持たせてやろうと考えてくれたのか、物欲しげな姿勢に同情したのか、私はいまでも彼には心から感謝し、敬意を表している。
海兵隊基地エルトロから大統領専用機「76年の精神号」に乗り込んだのは、私のほか米国の新聞、週刊誌、テレビ、通信社各1名ずつのpool reportersで、ウイスキーの水割りなどを昼間から飲みながらカード遊びをするなど余裕綽々だったが、こちらはそうはいかない。一足先にハワイの空港で待っている仲間の記者団に遂一報告する義務を負っているから、何でもメモを取らなければならない。
いきなり、キッシャンジャー大統領補佐官が記者団の前に現れて、米中、日米関係をひとくさりぶつ。会見が終わったあとでジーグラー報道官が大統領専用室に私を案内してくれた。ニクソン大統領と握手をしたあと、前日別邸でミュンヘン・オリンピックを見ていたが、日本の体操の選手は素晴らしいとしきりに誉めた。大統領はさりげなく、「これはファミリールーム」だと行ってドアを開いたところパトリシア夫人がいるではないか。夫人はにこやかに近寄って私と握手を交わした。
■外交家・ニクソンの業績
いま思い出しても、エルトロ基地からヒッカム空港までの時間はあっという間に過ぎてしまった感じがする。
空港待合室の一角で日本人記者団に取材の報告を終え、東京本社に電話送稿しようとして気がついたのだが、すべての電話は新聞、テレビの記者でふさがっている。本業の方は遅れに遅れてしまっていた。
ニクソン大統領はウォーターゲート事件とすぐに結びつけられるが、外交家としての彼の思考と実行力を無視するのはあまりにももったいない。晩年は復権して何冊もの名著を残し、レーガン大統領ら共和党指導者には対ソ(露)、対中政策のアドバイスもした。若くして副大統領になり、大統領選に、次いで州知事選に敗れたあと、再び大統領選に挑戦し、ホワイトハウスの住人になる。ウォーターゲート事件で失脚したあとまたまた名誉を回復した。彼の死にあたって「タイム」誌は“the rise and fall and rise and fall of Richard Nixon”と称えた。
教師になり、60歳の年に私は「ニクソンの対中政策」で学位を取った。95年に発生した米兵による女児暴行事件で日本中が大騒ぎになったとき、私なりの視点で評論を書いた。それが認められ、産経新聞から正論大賞を頂戴した。第一の人生に感謝するのみだ。
たくぼ・ただえ会員 1933年生まれ 56年時事通信入社 ワシントン支局長 外信部長 編集局次長などを務める 84年から杏林大学社会科学部教授 同大学総合政策学部教授