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幻に終わった世界的スクープ(田島 良雄)2002年2月

ソ連首脳死去発表で窮地脱す
1985年3月10日、北京の人民大会堂。趙紫陽中国首相のもとで国務委員(副首相級)に就任した宗平国家計画委主任が会見に応じ、静かに口を開いた。「中国は今、ソ連と長期経済貿易協定(1986年-90年)の締結交渉に入っています。協定では原子力発電をめぐるソ連側の協力問題が議題になっている。今、その交渉をしています」。

■水面下で進んでいた“雪解け”

思わず耳を疑った。中ソ経済関係がそこまで進んでいたのか。1972年の日中国交正常化当時、中国はソ連の核攻撃の脅威にさらされていたのだ。日本は、米国の頭越しの米中関係正常化の動きに対抗して中国との国交回復を強く願っていた。一方、中国はソ連の脅威に対処するため、米国、日本との関係正常化を内心強く求めていた。これが日中正常化の国際的背景だ。それから10年余、ソ連はブレジネフの後、アンドロポフ、チェルネンコと首脳部が慌ただしく交代、中国も1978年に採用された改革・開放政策が胡耀邦総書記のもとで推進されるなど両国を取り巻く情勢に変化が出ていた。当然、中ソ関係改善の行方に世界の関心が集まっていた。私の最大の関心もそこにあり、訪中は、中ソの雪解けがどこまで進んでいるのかを、副総理格の宗国務委員に直接確かめることにあった。

このため、ひそかに進められていた中ソの経済協力交渉がどこまで進んでいるかに質問の重点を置いていた。その私の関心事に宗国務委員は淡々とした口調で答えてくれたのである。中ソ関係は予想以上のペースで進展している。しかも経済貿易協定に、ソ連の協力による原子力発電という戦略部門での協力関係までが盛り込まれようとしている。それを副総理クラスの閣僚が確認したのだ。

会見当時、米中原子力協定と日中原子力協定の調印がいずれも何のために遅れているかが世界の関心を集めていた。この両協定調印の遅れの裏に、ソ連との原子力発電をめぐる協力協定締結問題が横たわっていることも分かった。さらに宗国務委員は、その年の6月に中国の副首相が訪ソして協定に調印する予定であることも明言した。

当時としては、第一級の世界的ニュースだ。同席していた布施茂芳北京支局長も顔を紅潮させながらせわしげにペンを走らせていた。

私は、人民日報と並ぶ中国の全国紙、光明日報に夫婦で招かれ、初めて中国を訪問した。招待は東京特派員を務め、国際部長(のち副社長)として中国に戻っていた姜殿銘氏の計らいによるもので、宗国務委員との会見も姜部長の尽力で実現した。会見の予定時間は当初15分だったが、結局、30分に及んだ。会見内容はそのまま報道するという事前の約束を取りつけていた。会見内容の正確を期すため録音テープの持ち込みも了解してもらっていた。

会見が終わると、この大ニュースを直ちに本社に速報する一方、次の日程が迫っていたため布施支局長に本記、解説など原稿の執筆を依頼、案内役の姜部長の待つ毛沢東記念館に急行した。

速報は、午後3時過ぎごろだと記憶している。この日は一面に据える大きなニュースは特になかったが、翌11日朝刊早番用記事の送信予定は一応出来上がっており、加盟社である全国の地方紙には案内済みだった。そこへ小生の速報が割り込んだ。

速報を受けた斉田一路外信部長(現社長)は会見記事をスクープの格付けをして一面トップに据え、地方紙への出稿案内を差し替えた。後は布施支局長からの提稿を待つばかりだった。

■突然のオフレコ要請に苦慮

毛沢東記念館では、見学中、大変な事態が起きていることもツユ知らず、西安事件で蒋介石総統を連れ戻す場面を撮影した歴史的な写真に見入りながら、事件の連想にふけったり、翌朝には会見記事が特ダネとして新聞、放送で大々的に取り上げられるだろうことに胸を躍らせていた。

ところが夕刻、宿舎に戻ると自体は180度暗転していた。小生の帰りを今や遅しと待っていた布施支局長の声が上ずっている。会見の目玉になっている「原子力発電で中ソ協力」の部分をオフレコにしてほしい、と宗国務委員自ら支局に電話してきた、というのだ。それは約束と違う。同時に頭に浮かんだのは、オフレコを認めれば差し替えたばかりの出稿案内をボツにせざるを得ず、そうなると地方紙から本社に苦情が殺到し、斉田外信部長をはじめ当日の現場の編集責任者の責任問題に発展しかねない、ということだった。絶体絶命のピンチだった。

直ちに決断しなければならない。宗国務委員のオフレコ要請の理由は「このことが宗国務委員の発言の形で今、表に出れば交渉は決裂する。なんとか了解してほしい」という切羽詰まったものだった。諸般の情勢を勘案した上、断腸の思いで最低限の要求をまとめた。「今回は問題部分の報道は差し控える。しかし、後日、当方の観測記事の形で報道する」。布施支局長の努力で、この線で折り合いがついた。

その直後、本社から大ニュースが入電中であることを知らされ2度ビックリした。ソ連のチェルネンコ共産党書記長が死去した、とのソ連政府の発表があったというのだ。翌11日、ゴルバチョフ書記長が誕生、中ソ新時代の幕開けとなるのだが、11日朝刊の一面トップはチェルネンコ書記長の死去の大ニュースで瞬く間に埋まったことは言うまでもない。

歴史の転換点で幻に終わったスクープの穴埋めにソ連の旧体制の終わりを告げる大ニュースが登場するとは歴史の見えざる手が働いたとしか思えない。1985年3月10日の出来事が今でも脳裏にこびりついている。


たじま よしお会員 1932年生まれ 56年共同通信社入社 政治部長兼論説委員 整理部長 編集局次長兼選挙調査室長 ラジオ・テレビ局長 理事待遇電波対策本部長などを務める 94年退社
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