取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
小野田さん救出作戦(西島 雄造)2003年4月
1番乗りを目指せ
しまいこんでいたJALと鶴マークの赤いバッグを引っ張りだしてみた。すっかり変色した発表資料や地図、厚生省が運び込んだ設備・備品一式、薬品等の一覧表、捜索隊配置要図、警視庁が作成した呼びかけ説得の方法、記者会見のノート、送稿済の原稿、帰国特別機の午さん献立などが出てきた。鮮やかな記憶のままのものもあれば、記憶の曖昧さを思わずにはいられないメモも少なくなかった。
最初のフィリピン・ルバング行は、ちょっと楽しい体験だった。
昭和48年2月から展開された厚生省援護局の「小野田元少尉の救出に関する第3次捜索計画」に同行しての1ヵ月。小野田寛郎元少尉の両親、兄弟、かつて所属した陸軍中野学校の戦友、中学校時代の同窓生に厚生省、警視庁とまさに官民一体となった救出作戦だった。空から海から、また山地に入っての呼びかけ、ビラまき。取材に同行したのは、すでにマニラに支局があった朝日に、シンガポールから飛んできた共同、そして毎日、読売の記者4人。
大捜索とはいえ、昭和27年から繰り返し行われながら空振りが続いていることだし、国際電話のラインは少なく、料金は高い時代だったから、各社とも救出しない限りいちいち送稿せずともよしと言われていた。
むろん、軽飛行機をチャーターして島に渡れば、ニッパーハウスで蚊取り線香とともに寝起きし、実兄の敏郎さんらから「寛郎は子どものころから気が向かないと押入れに隠れ込んでいたものなあ」といった話を聞いて過ごした。捜索隊の制服を着て、毒蛇にへっぴり腰の密林行にも加わった。訪れたフィリピン政府高官を歓迎しての子豚の丸焼きはご馳走だった。比政府の広報官とともに、太平洋戦争の激戦地コレヒドール島を視察するといった余禄もあった。
1年後の3月10日、小野田元少尉が救出される。一転して厳しい取材となった。我々の仕事はいつもこんなもので、楽しいことの後にはちゃんと帳尻合わせがくる。2月26日、鈴木紀夫青年が元少尉と接触したとの一報に、社で当直番だった身に、当然のように特派命令。夜明けとともにマニラへ向かった。
■協定のフライング?
しかし、ルバング島に渡ることは許されず、厳戒令下の日本大使館とホテルを往復の毎日。柏井秋久団長を軸にした定時のブリーフィングが隔靴掻痒。ときにはけんか腰になりながらも打つ手なし。当局と各社で取り交わされた協定は、救出・保護が確認されたら直ちに各社に伝達し、それから2時間後に比空軍基地から全員を島に運ぶというものだった。
30年後のいま白状すると、各社の取材記者は、記憶に間違いがなければ朝日が8人、毎日が7人で読売は3人。修羅場でのこの差は大きく、自由取材となれば勝ち目は薄かった。そこで柏井団長にこっそり耳打ちした。
「勝手に各社がチャーター機で飛び回れば空中戦になり、事故が起きかねませんよ。責任とれますか」。温厚な柏井さん、「どうしたらいいだろう」と、すぐに乗ってきたから、「比空軍のチャーター機で束にして運ぶのがベスト」と助言した。
失敗もあった。小野田さん救出までの取材の目は、鈴木青年との接触だが、その所在は明らかにされない。当たりをつけたのは、島のレーダーサイトの司令官の私宅だ。K写真部員が張り込んだが、物見高い市民に囲まれ不発。
次は民間人5人にインスタントカメラを持たせ、島民が生活の足にしているフェリーでルバング島に送り込み「それらしき姿を見かけたらなんでもいいからシャッターを切って」と託した。苦肉の策ではあったが、フライングすれすれの成果は、1人も1台のカメラも戻ってこず、大笑いの種に終わった。
■鉄条網越え大型ヘリに突進
さて、厳粛の10日。夕刻近く、支局に関連会社の取材記者から「マニラ空港に着いたが、どこへ行けばいいかわからない」との電話が入った。日曜日のランチをたらふく食べて気分は鷹揚になっていたもので、S君に「迎えに行ってやれよ。ただし途中で何があるかわからないからカメラも一緒に」と出てもらった。
それから間もなくS君から肝を潰す電話。「途中で占部大使に出くわし、日曜日なのに公用車で走っているので追いかけたら空軍基地に入った。救出を否定せず、これから島へ渡るが、同行できそうだ」ということではないか。この際、協定も遠慮も雲散霧消。
結局、S君と朝日の特派員が先行するという思いがけない流れになった。そして、連絡から2時間後に、間違いなく記者団を乗せた比空軍のC―123輸送機が基地から飛び立った。朝日と読売が先行したらしいとの噂は伝わっていたから、気まずい空気が漂った。島に着くと、事態はどんでん返し。先行したはずの2人は空港のバリケード内で足止め、協定は完全に守られていた。
ところが、である。これからトラックで現場のレーダーサイトまで運ぶと言われて待機しているとき、滑走路に駐機していた3機の大型ヘリコプターの回転翼が回り始めた。1機にフィリピンの記者団の姿、もう1機には救援物資らしいものを積み込んでいるが、手前はからっぽ。
警視庁一方面まわり時代からの友人、サンケイのY記者と以心伝心、鉄条網を飛び越えて走り、機体にすがって操縦士に「乗ってもいいか」と言うと、いともあっさり「OK」。そのときには各社も機体に群がっていた。操縦士に「どうする」と言うと「一緒に墜落するしかない。それが嫌なら蹴落とすんだね」とウィンク。
それで、どうしたかは、記憶が消えているが、結果は6人が15分でレーダーサイトに一番乗り。残る各社が山道を登って到着したとき、取材はあらかた終了。共同会見での状況説明が済んでまもなく、月明に照らされて、ぼろぼろの衣服をまとった元兵士が、音もなく滑るように目前に現れた。
この日、元兵士は52歳の誕生日を迎えた。
にしじま・ゆうぞう会員 1935年生まれ 59年読売新聞入社 青森支局 社会部 西部本社 社会部 日曜版編集部 社会部次長 芸能部長 編集委員 95年退社