ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

日月潭の吉田・蒋会談で特オチ(松永 太)2003年9月

消えたローマ字電報の謎
赤茶けたスクラップブックの吉田訪台記録の中に、切り抜けなかった記事がある。思い出してもいまいましい。台湾から送った電報が本社に届かなかったのだ。

1964年早春、池田首相の懇請に負けて、親分の吉田元首相は蒋介石総統に会いに行かざるを得なくなった。当時、中共(中国共産党政府)の台頭めざましく、国府(国民政府、いずれも当時の紙面略称)の中国代表権維持が難しくなっていた。岸内閣までは日華関係も順調であったが、池田内閣が軌道に乗る頃の世界の趨勢は、北京を国連における中国の代表として認めようとする空気に変わりつつあった。フランスの中国承認に続き、米国にも北京接近の気配が感じ取られるようになる。日本国内に「バスに乗り遅れるな」の声が高まってゆく。

日中貿易の進展や対中プラント延払い保証など、日本政府の北京寄り姿勢にヘソを曲げた蒋総統には、「以恩報怨(暴に報いるに徳をもってする)」という、終戦時大陸にいた軍民の優先引き揚げの恩義がある。本来なら大平外相が訪台すべきなのだが、北京への遠慮から逃げ腰だった。

そこで、大物吉田さんに白羽の矢が立った。池田首相は親書を託し、86歳の老体をいたわり「日向ぼっこのつもりで気楽に行ってきてください」と送り出した。この日向ぼっこは台湾紙に「晒太陽」と紹介された。随員は愛娘麻生和子夫人、北沢直吉代議士、木村駐華大使、外務省の御巫課長とナースの5人。一行は2月23日の日航機で、5日間の旅に出た。

■景勝地でトップ会談

迎える国民政府は、蒋総統の次男蒋緯国中将が接待役、陳誠副総統・張群秘書長・何応欽将軍・厳家淦首相・沈昌煥外相ら要人がずらり。吉田さんは「日本は自由陣営の一員として反共政策を堅持し、国民政府は見限ることはしない」と説得する手はずである。注目の蒋総統とのトップ会談は、まず24日台北の総統府で行われ、25日夕刻の2回目と26日午前の3回目は、中部台湾の景勝地日月潭が舞台となった。

東京から取材に派遣された記者団は9人、台湾はもちろんAPはじめ外国からの記者・カメラマン数十人が押し寄せ、湖畔の保養所・教師会館にプレスセンターが設けられ、行政院新聞局は電報局を特設して、直接東京へ打電できるようにしてくれた。

第2回会談後は、日本側スポークスマンの北沢会見から現地や外国メディアを締め出してひと悶着があり、送稿開始は夜も更けてからだった。聯合報によると、記者団の電報49本は深夜2時まで受け付け、打ち終わったのは朝5時とか。国際電話は80件、日月潭電報局5ヵ月分の収入をたった一晩で稼ぎ出したという。

■抜け道が裏目に出て

いち早く原稿を送り終わった私は、ホテルで一杯やっていたところへ本社から呼び出し電話がかかった。「今、共同電が入ったが、ウチの記事が届いていない。道新さんから競争紙と同じ記事は使えないと矢の催促だ」。そんなばかな、こちらはとっくに着いたはずなのに…。

実は、台北を出発する時、アシスタントの呉中日通信員(王沿津東京通信員は拘留中)から「いなかの電報局では、回線を増設してもさばききれないと心配している。電話で私の所へ吹き込んでくれれば、台北電信局から打ってあげる」とアドバイスしてくれ、それに乗ったのだ。だから本記、雑観の2本を台北経由の抜け道で送った。いや、送ったはずだった。それがまだ着いていない。私はなお楽観していた。すぐ呉通信員に電話して、台北局に受理されたことを確認した。それが降版時刻を過ぎても届かず、特オチと知って青くなった。紙面は共同電で何とかなったものの、なんのための自社特派員だ。

この謎解きのために、台北に戻ってから呉さんと2人でルート追跡をした。分かったのは、窓口をパスしたローマ字日本語原稿がオペレーターでストップしたらしい。

検閲官が電信局スタッフと一緒に日月潭に出張して、留守役がいなかったのだろう。厳戒令下、未検閲の新聞電報、しかも蒋総統の記事を勝手に打電するわけにはいかない。帰るまで留め置かれてボツになったに違いない。当局は否定したが、幻の原稿はついに東京新聞キャッチャーデスクに届かなかったのだ。

■要注意記者と目されて

私が要注意人物と目されていたことを、うすうす感づいていた。8年前の1956年、引揚船興安丸で訪中し、撫順戦犯収容所での満州国高官と日本からの家族面会の取材や、陳毅副総理会見をしたことを国府当局をつかんでいた。

日月潭会談取材後、記者団は蒋総統との記者会見を待ち続けた。会見は3月4日、高雄の清澄湖賓館でやっと実現した。これを待つ間の雑談で、新聞局幹部が私の北京政府取材経験を確かめてきた時、あえて否定しなかった。

その際、当局がチェックしたのは、2月24日に送稿し会談終了後の27日に掲載された「蒋総統のこのごろ」という記事だった。掲載前に彼らは記事内容を知っていた口ぶりだった。その記事の中で、総統が民衆の前に出たがらないこと、身辺の異常なまでの厳戒ぶり、この2つが引っかかった。いわゆる本省人(台湾生まれ)が蒋総統と国民党に深い恨みを抱いていることまで書かなくてもよかった。

結局、私はおとなしく当局のお膳立てに従って島内視察をしたほか、大陸反攻の最前線、金門島も見せてもらった。各地ルポの一部と写真は、一足先に帰国した記者仲間に託し、本格的視察記は現地から送らず、帰国後、特集と続き物に慎重にまとめあげた。日華親善に反しないように。



まつなが・とおる会員 1953年東京新聞社入社 社会部 政治部副部長 67年中日新聞社 東京人事部長 文化センター事務局長等 関連会社役員を兼任し 現在 新聞社嘱託 中日ビル取締役東京支社長
ページのTOPへ