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編集者のみた戦後エコノミスト(碓井 彊)2008年4月

高度成長期の論客たち
新聞記者から雑誌編集者に変わって17年、多くのエコノミストと交わり、新聞とは異なった貴重な体験をした。高度経済成長の前後に活躍した論客の群像を思い出すままに綴ってみたい。

■官庁エコノミスト花盛り■

-親分は〝ホイキタさん”-

私が毎日新聞の経済誌「エコノミスト」にいたのは1967年(昭和42)から84年(昭和59)の退職までである。いわゆる昭和40年不況のあと、日本経済の仕切り直しに始まって再び高度経済成長に挑戦する時期であった。八幡・富士の大型合併(70年3月)に象徴される産業の国際競争力の強化やスミソニアン体制の崩壊(73年2月)に伴う円の切り上げ、第一次石油危機の発生(同年10月)、その後の狂乱インフレ、バブル経済へと、雑誌づくりのテーマにこと欠かなかった時代である。

日本経済の実証分析といえば、まず経済企画庁の大来佐武郎氏を頂点とする経済白書の歴代執筆者たちがやはり話題提供の中心、あるいは重要な立場にいたと思う。

戦後第1回の白書は都留重人氏(故人・一橋大学元学長)だが、その後、大来佐武郎、後藤誉之助、向坂正男、宍戸寿雄、金森久雄、宮崎勇、内野達郎、佐々木孝男、高橋毅夫、赤羽隆夫、横溝雅夫の各氏といった人びとが続き、いわゆる官庁エコノミストグループを形成する。続いて吉冨勝、香西泰、小峰隆夫の各氏など多くの人が輩出した。

最初のころは、経済白書が今日と異なり学者ばかりでなく、サラリーマンや学生たちにも読まれていたのでエコノミスト誌も白書別冊を作ることになり、私が担当者をつとめることになった。

官庁エコノミストの親分とも言うべき大来佐武郎氏は、包容力とバランス感覚に富んだ温厚な人で、時折たずねた。何でも頼みを聞いてくれるというので、〝ホイキタさん〟とニックネームをつけた人がいる。河野洋平氏(当時、新自由クラブ)に口説かれて参院選に出馬、落選したときは、「やはり本来のエコノミストに戻ります」と頭をかいておられたのを思い出す。

その後、外務大臣を引き受け、急死した大平首相の代わりにベネチアサミットに出席したのだから、人生は分からないものだ。93年(平成5)2月に死去されたときは、毎日新聞紙上に追悼文を書かせてもらった。

-「動」の金森、「静」の宮崎-

官庁エコノミストのなかでも長命なのは金森久雄と宮崎勇の両氏。

お二人の肌合いはかなり対照的だ。強気派で鳴らし、学者も一目をおいた「動」の金森氏に対し、どちらかといえば「静」が宮崎氏という印象だった。

金森氏は段階的接近法による予測で、成長期にはよく当たった。日経センターに移ってからはマスコミにしばしば登場、著書だけでも編著を含め80冊に上る。経済書を、これだけ出した人は少ないだろう。そのせいか最近は目が悪化、外出ができない不自由な状態になった。今日でも昔話をする機会があるが、トレードマークの太枠メガネとパイプは、もはや見られない。

一方、「静」の宮崎氏は官庁にとどまり、経企庁長官まで上りつめた。生え抜きとしては初めてで、やはり優等生だな、と思う次第である。

歴代白書執筆者でユニークなのは赤羽隆夫氏。「経済もマンガで読ませる時代、米国で出ているマンガにした経済学の本を翻訳しませんか」といわれ、米国の出版社の版権をとって赤羽氏の翻訳によりエコノミスト誌に載せた。その後、『マンガで読む日本経済』などの本が出たりして、今、景気探偵を自称する赤羽氏の目のつけ所に感心したものだ。

■実証経済学者たちの活躍■

-成長論争がおもしろい-

官庁エコノミストに対抗する実証研究の学者も活躍が目覚ましかった。近代経済学者、マルクス経済学者たちを経済雑誌は競って追いかけたものだ。戦後の学者についてみると、いわば第一世代として、中山伊知郎、東畑精一、有沢広巳、大内兵衛の各氏などの大学者や都留重人氏ら帰国組、稲葉秀三、高橋亀吉氏らの優れた評論家を挙げることができよう。

第二世代にあたるのが、小宮隆太郎、内田忠夫、篠原三代平、小島清、中村隆英、伊東光晴、辻村江太郎、渡部経彦、馬場正雄、飯田経夫、大内力、正村公宏の各氏ら。後に帰国した宇沢弘文氏やロンドンの森嶋通夫なども加わる。雑誌は論者にこと欠かなかった。

やはり成長論争がおもしろい。近経、マル経を問わず元気なエコノミストがどんどん登場する。出番の多かったのは内田忠夫(故人)、篠原三代平、小宮隆太郎、伊東光晴氏ら。整理するためにマンガで学界山脈を紹介、別冊に載せたことがある。

こうした経企庁エコノミストや学者とは別に、下村治、吉野俊彦、竹中一雄氏らのような他の官庁、民間シンクタンクの人びとも活躍した。

とくに、池田内閣のブレーンとして著名な下村治氏(当時、開銀設備投資研究所)はいち早く高度成長を予測、独特の下村理論で世間の注目を集めた。相つぐエコノミストとの成長論争は研究者の強い刺激となった。下村理論は複雑な計量モデルをつくるわけでなく、産出係数、設備投資比率、輸入依存度など、わずかの係数から日本の高度経済を分析する。信者が増え、教祖的な感じがした。

この強気の成長論者が石油危機にともない昭和40年代半ばから、成長減速論をいい出し、ついにはゼロ成長論の主唱者となった。私も速記者を連れて事務所に下村氏を訪ね、口述筆記をしたことがある。世間の批判には超然としていて、ゆっくりと語る確信に満ちた表情を、いまも忘れることができない。残念ながら、平成景気を見ることなく亡くなった。

-先進的な篠原理論-

学者の中で息が長いのは、中期循環論を武器に重戦車さながら論陣を張った篠原三代平氏(当時、一橋大)。討論や座談会で砲火を浴びても泰然としておられたのを思い出す。しかも官庁エコノミストに影響を与えておられたせいか、大学をやめて経済企画庁の経済研究所長に転身した。そこで昭和48年、新しい福祉指標(NNW)を開発、GNP統計を補う試みを指導したことがある。

当時は学者仲間でさえ、理解にとまどった。皮肉屋の馬場正雄氏(京大・故人)が 「Net National Welfare」をもじって「何が、なんだか、わからない」とダジャレを飛ばし、篠原氏を苦笑させた。しかし、その後は、理論的根拠が評価された。先進的な研究だったのである。

また円切り上げで世論が二分したとき、小宮氏がクローリング・ペッグ論を、篠原氏が変動相場制を支持したことは、いまでも学界の語り草となっている。篠原氏は長老として87歳の2006年に文化勲章を受章したあと、論文集と随筆集の2冊を出版した。その生命力の強さには恐れ入るばかりである。

ついでにいうと、昔、篠原氏の景気循環論を「一橋運命論」と皮肉った金森久雄氏が、たまたま経企庁経済研究所長となった篠原氏と同じ時期に、経済研究所次長になったことがある。一つの部屋に、つい立てを立てて、席を別々にした。「こういうことがあるから、批判は紳士的にやらなければならないね」と金森氏は苦笑したものだ。

著名な外国の学者といえば、西山干明氏(当時、立教大)が連れてこられたマネタリストのミルトン・フリードマンを思い出す。エコノミスト誌別冊で経済のほかに日本の著名な評論家の羽仁五郎氏との対談を組んだ。さぞ左翼と右翼の対決さながら、おもしろい激論になるかと思ったら、さにあらず、教育問題など意気投合する場面が多くて思惑が外れたことを覚えている。

さて、大学というところを回ってみると、いろいろなことがある。私がつかんだ慶応大商学部の入試問題漏洩事件もその一つ。たまたま、事件の発覚を耳にし、概要を書いて社会部に通報、捕足取材を経て社会面のトップを飾る結果となった。77年の5月24日で、まさに特ダネ。これは雑誌編集上の付録である。




うすい・つとむ会員 1929年生まれ 52年毎日新聞入社 大阪経済部 エコノミスト編集部次長 別冊編集長 84年退社 桜美林大学 創価大学講師 高崎商科大学学長
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