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チャーチル国葬(有馬 純達)2007年4月

ボツになった岸特使会見記
英国のウィンストン・チャーチル元首相が亡くなったのは、1965年1月24日であった。享年90歳。葬儀は、国葬として1月30日に行われることになった。

当時、朝日新聞特派員としてロンドンにいた私は、国葬取材のためセントポール寺院に入場する許可証を手にすることができた。このとき当局が、どんな基準で取材記者を選別したか、さだかでない。ただ、わが社の社名はABCのAではじまり、私の名前もAではじまる。そんなわけで、朝日新聞は当時の在英外国特派員協会の会員名簿の筆頭に。そして、そのなかで、私の名前は後藤基夫支局長や先輩の土屋六郎記者より上に載っていたと記憶する。

それ以前から、私はクジ運が強く、エリザベス女王主催の園遊会にも、数少ない外国人特派員の1人として招かれた。もっとも、バッキンガム宮殿の庭園で、女王の謁見を待つ紳士淑女の行列の後ろについて、どんな挨拶をすべきか頭の中で英作文をしているうち、立派な装束の衛視らしき人物が近づいてきて「ここは女王陛下と握手する人たちの列であって、遺憾ながら貴殿はそれに該当しない。どうか行列を離れて、陛下以外のどなたとでも会話を楽しんでいただきたい」と。

のっけから話がそれたが、若輩の私が園遊会にも国葬にも招かれたのは、ABC順が幸いしたのか。

■「葬式」より「赤ん坊」優先

さて、ウィンストン・チャーチルは、第2次大戦でドイツはじめ枢軸国に打ち勝った救国の英雄である。1940年5月、戦時挙国連立内閣の首班に推されたチャーチルは、最初の議会演説で「われわれの目的は、あらゆる犠牲を払ってでも勝利することだ」と述べた。やがてフランスがドイツ軍に敗れたため、翌年、ソ連と米国が相次いで参戦するまで、英国は単独で強力なナチス・ドイツと戦わねばならなかった。

国葬には、異例にもエリザベス女王はじめ王族一同の列席が決まり、世界の111カ国が代表を送ってくるという。代表には国王が4人、女王が1人、ほかに国家元首が5人、総理大臣が16人。これに先立ち、棺は国会議事堂内のウェストミンスター・ホールに3日間、安置され、32万人を超える市民が弔問に訪れた。厳冬のさなか、長い長い行列ができた。

ここで私事とはいえ、語らぬわけにいかない事態が発生した。我が家の第3子が予定日を過ぎても産まれないのである。支局の先輩・土屋六郎さんは、私の国葬取材が最大の障害だという。「キミがチャーチル国葬の取材でセントポール寺院に入ってしまうと、その先、オクサンはキミに連絡のしようがない。2人の小さな男の子をかかえて、オクサンはどうやって病院に行けばいいのかね。このさい、国葬取材はオレが替わってやる」と。

後藤支局長も「葬式より赤ん坊が優先かな」と土屋提案に賛同。こうして私は現場取材の機会を逃した。そこで支局にこもって、あらためて国葬参列者の顔ぶれを点検した。

■さながら「戦友葬」の面々

100を超える国々から集まる3千人の参列者の名前が、当時、朝日新聞と提携関係にあった英紙「ザ・タイムズ」に、細かい活字でぎっしり並んでいる。子細にみると、第2次大戦における連合国の勝利に貢献した顔ぶれが目をひく。

まず米国は、ドワイト・アイゼンハワー陸軍元帥(元大統領)だ。「史上最大の作戦」で知られる1944年6月のフランス北部・ノルマンディー上陸作戦で、かれは連合軍最高司令官をつとめた。ロンドンに身をおいて、チャーチル首相と膝つき合わせて作戦を練った。それまでも、北アフリカ戦線やイタリア侵攻など各方面で活躍した。

フランスは、シャルル・ドゴール大統領である。ドゴール将軍は1940年6月、パリが陥落すると、亡命先のロンドンからBBC放送を通じてフランス国民に「レジスタンス」を呼びかけた。将軍は44年8月、パリのドイツ軍が降伏した1時間後、パリ入城を果たしたが、そこに至るまでの4年近く、そして、その後も「自由フランス」を率いて対独戦を指揮し、苦闘の連続であった。

ソ連はイヴァン・コーネフ陸軍元帥。日本では知られることの少ない将軍だが、対独戦での功績は顕著だ。1945年4月25日、ドイツ軍を追って東に進む米軍と、ドイツ軍と戦いつつ西に進むソ連軍がベルリン南方20キロのエルベ河畔で合流、米ソ両軍の兵士が握手したことは広く知られるが、そのときのソ連第58師団はコーネフ元帥の指揮下にあった。ヒトラー総統の自殺は、その5日後。そして翌5月8日には、ベルリンのドイツ軍が無条件降伏文書に調印した。

こうした参列者の顔ぶれをみると、この国葬は、第2次大戦の戦士・チャーチルを弔う戦友たちによる葬儀、という色彩がつよい。米国のアイゼンハワー氏は、とくに個人の資格での参列という。

■空港ロビーで岸氏と単独会見

日本政府の特使はだれか。閣議で岸信介元首相と決まった。国葬の2日前の早朝、ロンドンのヒースロー空港到着という。その日、私は暗いなかを空港めざして車を飛ばした。国葬取材を逃したかわりに、岸氏インタビューをモノにしようと。

到着ロビーで待つうち、岸さんの姿がみえた。私はロンドン赴任前、「60年安保」では、外交担当の政治部記者として衆議院安保特別委員会にくぎづけで、連日、岸首相の答弁を聞くのが仕事だった。だから岸さんを、ある種の懐かしい気分で迎えた。岸さんは、なぜか随員と離れて一人で現れた。大使館員の出迎えも間に合わず、同業他社もいない。期せずして単独会見となった。

「お疲れのところ恐縮です」と挨拶したうえで「今回のチャーチル国葬は、参列者の顔ぶれからいって第2次大戦の戦友葬という性格をもっています」。つづけてアイゼンハワー、ドゴール、コーネフら3将軍について手短に説明した。「ところで岸さんは1941年12月8日、東條英機内閣の商工大臣として、米英に対する宣戦の詔書に副署なさっています。そのようなお立場から、チャーチル国葬参列にあたって、どんな感想をお持ちでしょうか」。岸氏は「それはですよ、それはですよ、それはですよ」と3回、繰り返した。

絶句した元総理大臣を、それ以上、問い詰めては礼を失する。そう考えて「敗戦後20年、いまや日本は平和国家として生まれ変わった、ということでしょうか」と問うと、「そうです、その通りです」と。

■なぜか3行だけのベタ扱いに

これは歴史認識の問題、というほどのものではあるまい。それ以前の、単なる歴史的事実の忘却である。ひとり岸氏だけの問題でもなかろう。世界の国々と日本との隔たりを痛感した。わが日本国民は、日本列島に閉じこもって、身内だけに通用する価値観のもと、肩寄せ合って生きているのか。過去は水に流して。

同じ島国でも英国は違う。当時のロンドンでは反日感情が普通のことだった。あちこちのパブで「日本軍の捕虜になって虐待された」と冷たい目を向ける客たちに出くわした。家を借りるにも、当方が日本人と知ると、家主は見え透いた理由をあげて断わってきた。10軒目に、やっと契約が成立したことを覚えている。彼らは健忘症の対極にある。

ところで、肝心の岸元首相会見記はボツになった。朝刊1面に、【ロンドン=有馬特派員二十八日発】と仰々しいクレジットつきながら、岸信介特使の到着を伝える冒頭の3行だけのベタ記事に。

国葬の終わるのを待っていたかのように、翌31日、我が家に長女が誕生した。早朝、雪の残る道を救急車で病院に向かい、昼前に産まれた。出生届の提出期限が日本大使館領事部より早い地元の役所に、とりあえずローマ字で「ERIKO」と届けた。支局長の後藤さんが名付け親だった。



ありま・すみさと会員 1928年米国シアトル生まれ 52年朝日新聞入社 政治部次長 論説委員 ヨーロッパ総局長 88年退社後 富山女子短大 創価大学比較文化研究所教授を歴任
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