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私の張学良印象記(片岡 繁雄)2006年2月

「無怨無悔」に沈黙の美学
1937年1月の総合雑誌6誌に、前年12月、中国の古都西安で勃発した張学良氏による蒋介石監禁事件の論文が14編掲載された。当時の“支那通” 総動員だったが、翌月の「日本評論」によると、「優秀な出来映え」は尾崎秀実氏の1編だけ。佳作級2編のほかは、すべて「落第」との論評を、読んだ記憶がある。この結果については、いろんな感想が可能だろうが、事件がどれほど意外性に富み、その衝撃が大きかったかを示す一例としてもよいだろう。

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それから70年。事件の評価は、中国現代史の転換点と定着した。監禁された蒋介石が従来の「内を固めてから外敵(日本)に向かう」政策を放棄、内戦停止による抗日救国の新局面を迎えるにいたった事件の経過や構図も、ほぼ明らかになっている。しかしともすれば、なおナゾを残す事件と見られるのは、主役の張氏が事変渦中の当事者たちの言動への証言を避けたまま、世を去ったためだ。

そればかりか、決起への報復として強いられた半世紀余にわたる監禁生活についても「無怨無悔」(恨みも悔いもなし)というばかり、ついに本心を吐露しなかった、と思われることにある。

当事者すべてが、たとえ「真相」を語ったとしても、なお「真実」に遠いのが歴史の常なら、その沈黙のナゾこそ深い。「懺悔録」という張氏の回想録が、香港誌に掲載された事実はあるが、自筆としても蒋介石のもとに提出したものといういきさつは留意されねばなるまい。張氏はその沈黙で何を守り、何を伝えようとしたのだろう。

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監禁を解かれて2年目の93年1月、台北郊外の私邸に、張氏を訪ねた。時に91歳。年齢を感じさせない抜群の記憶力と判断力とで、発言は大概、雄弁かつ率直だった。

例えば張氏の要請により、共産党代表の資格で西安に入った周恩来が、事態収拾に果たした役割。「めちゃくちゃとしかいいようのない局面を、すばやく掌握し分析した。自分の手に余る混乱を、さらに拡大しようとする動きもあったが、彼は情勢に応じ他人を説得するすべにたけていた」「反応の素早さ、死をも恐れず乗り込んできた大胆さ。我々は似たもの同士。『一針見血』、単刀直入、理解し合えた」。

蒋介石については、その傾倒した陽明学にこと寄せ批判する発言もあった。「『心学』が中国に与えた影響は大きいが、自分は感心しない。王陽明は『我看花、花在、我不看、花不在』(私が見るから花はある。見なければない)とした。自分はいいたい。見ようと見まいと、あるものは、ある。花に限らぬ」─抗日へのうねりという客観的事実に目をつぶり、共産党攻撃に全力をあげていた蒋介石の「主観」を指していることは確かだろう。

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批判めいた発言は、わずかだった。「生涯、崇拝する長官は蒋公と父の作霖だけ」「軍閥内戦時代から、一貫して蒋公を支持してきた。内戦を終息できるのは蒋公しかいない」。そして話題が、事変さなかの様子や蒋・周会談に及ぶと、きっぱり詳細を拒んだり、質問をさえぎるように話を進めたりした。

その気持ちは分からないではない。事変が蒋介石の妥協によって終息した以上、こうした蒋への敬意に加え、軍人としての忠誠を絶対視する張氏にとっては、その名誉を守るというより、動静を云々すること自体、不当と考えるのはスジが通っている。

共産党側から、民族英雄の評価が高まるほどに、国民党内保守派の敵意は強まったし、強人・蒋介石在世中、ひたすら沈黙を続けたのには、何の不思議もない。しかし、公開の場での発言が可能になってからも沈黙をことさら強調するかのごときかたくなさには、違和感があった。

そんな思いを強くしたのは「当事者でない人間が推測を書きたいなら書かせておけばよい。歴史書は常に歪曲に満ちている。『コトゴトク書ヲ信ズレバ書ナキニシカズ』、読む方が自戒することだ」との歴史、正確には書かれた歴史への不信感を聞いたときだ。歴史の証人としての立場を放棄しても沈黙を守ろうとする決意には、敬意や信条とは別の何かがあると思えた。

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張氏に逆らい、その胸中を推測すれば、それは結局、歴史の潮流は正確にみきわめながら、上官・蒋介石を見誤った無念さに帰着しよう。

張氏は再三の泣諫の末、万策つきて決行した上官監禁の「正当性」の名目を、春秋時代の楚国の兵諫(実行行使による諫言)に求めた。長い中国の歴史でも、兵諫はやや似たケースを拾っても一、二例しかない。ただこの故事でもうひとつ注目されるのは、主謀者が「罪コレヨリ大ナルハナシ」と、その後自分に「足斬り」の刑を課していたことだ。

事変後、周囲がこぞって反対し、当の蒋介石自身制止した南京への出頭を、張氏はあくまで「軍人としての良心、責任問題」とする。とはいえこのとき、張氏に正義の兵諫はけじめや処分あってこそ完結するという思いはなかったか。周恩来が危惧した「『連環套』(意気に感じてお縄を受ける男伊達の京劇)の毒に当たっていないか」という性格である。

常に蒋を支持してきた過去の関係から、張氏には分かってもらえる期待や思惑もあったろう。しかし苛酷な権力闘争を生き抜いてきた蒋介石は、そんなロマンティシズムを許すほど甘くなかった。徒刑10年の軍法会議を“恩赦”で取り消し、監禁という名の“終身刑”で臨んだ。蒋の政敵監禁(胡漢民など)は、決して初めてではなかったのだが…。張氏は当然のこと復権の道を探った。抗日最前線への派遣を再三志願し、政争に敗れた中国政客が選ぶ、外遊のかたちでの自由回復を考えたフシもある。

復権どころか、自ら押し開いた激動の舞台への参加が絶望となったとき、張氏は見込み違いをはっきり知った。しかし、それを認めることは、軍人張学良にとっては、敗北につながる。繰り言や弁明も運命への屈服である。ともに張氏にとって受け入れられるものでない。

そこで張氏が選んだのが、沈黙の美学でなかったか。歴史的使命は自ら語らずともすでに定着している。「無怨無悔」というほどに、監禁の不当さはかえって浮かび上がる。迫害した人物の名誉、秘密を守り通すことで、その人間より優位に立つことにならないか。

蒋介石が引用して、敗戦の日本人に感動を与えた老子の「怨ミニ報ユルニ徳ヲ以テス」との言葉は、張氏の場合皮肉にも蒋介石に対してでなかったか─私の受けた印象である。

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会見当時、張氏は苦難の日々をともにした趙一荻夫人との二人暮らし。キリスト教に入信し、礼拝日に子どもたちに配る聖書の読みものを書くのが楽しみ、という言葉通り机のまわりは、宗教関係の本でいっぱいだった。

だが、たった一冊、その場にそぐわない本が机上にあった。中国兵家の古典「孫子集注」─「東北(旧満州)の少帥(ヤング・ジェネラル)」は健在だった。

張氏はその後、ハワイに移住、大陸訪問、里帰りの夢は果たせぬまま、2001年死去した。枕頭に、「孫子」はあったろうか。







かたおか・しげお会員 1936年生まれ 59年北海道新聞入社 外報部 香港 北京 シンガポール各特派員を経て 社会部長 東京支社編集局長 論説副主幹 96年退社
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