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チェコ激動20年のドラマ 歴史的事件逃した苦い思い出(森本 良男)2005年9月

1968年8月17日の昼下がり、私はウィーン空港のロビーで夕刊を読んでいた。ハンガリーとチェコスロバキア(以下、チェコと略す)での仕事を終えて、モスクワに帰る途中だった。

その3日後の深夜、ソ連軍が雪崩を打ってチェコに侵入し、「人間の顔をした社会主義」を踏みにじった。いわゆる「チェコ事件」の勃発であるが、私はこの日ウィーンで、記者なら誰もが狙う大魚を逸していた。

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チェコはこの7カ月余り、民主主義を求める独自の道を決然と歩んでいた。先頭には、1月に共産党第一書記に選ばれたアレクサンデル・ドプチェクが立っていた。

社会主義の総本山を自認するソ連は、これを阻止しようと激しい非難を重ねてきた。6月下旬には、ソ連軍を主力とする東欧諸国軍が、チェコ国内で演習を実施した。

7月3日、ソ連共産党のブレジネフ書記長が演説し、56年のハンガリー動乱(ソ連軍の武力介入)を想起してこう言った。

「(あのとき)ハンガリーは、ほかの社会主義諸国との兄弟的、国際的同盟を頼りとして、社会主義を守り抜いた」

この発言は、チェコの兄貴であるソ連には、12年前と同様に、いつでも「社会主義を守るため」チェコに軍隊をさしむける用意あり、という物騒な決意表明だった。

こうした露骨な威嚇のもと、ようやく7月末、チェコ、ソ連両国首脳のほとんどが出席する派手な演出で、「手打ち式」が開かれた。続く8月3日、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアを加えた六カ国会談で、ソ連、チェコ双方の主張併記ではあったが、ともかく和解をうたうブラチスラバ宣言が発表され、世界をほっとさせていた。

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モスクワ特派員の私は、この「和解」をめぐる関係諸国の反応を探る続き物の取材、送稿をすませ、モスクワ行きの搭乗開始を待っていた。 だが、空港で買った夕刊早版に、ひとつ気になる記事があった。

チェコの首都プラハでは、警察組織の廃止を求める学生たち若者のデモ、署名運動が起きていたが、17日にはドプチェク自身が市内で演説し、この運動をやめるよう若者たちをさとしたというのだ。

ソ連側は、いちはやく14日にこの運動を取り上げ、チェコをきびしく非難していた。「ブラチスラバ和解」以来やめていた公開論争の再開である。

「ちょっと動きがおかしい。話が違うではないか」という思いが頭をよぎった。が、よもや3日後にソ連軍が侵攻するとは考えもしなかった。

顔を上げて発着便の案内ボードを見ると、私が乗る予定のモスクワ便に搭乗開始のライトがともり、その二つ三つ下にプラハ行の便が並んでいた。これに乗って、プラハの状況を確かめに行く手もあるかなとちらり思ったが、ちょっと手続きが時間的に無理であり、そのままモスクワ便に乗ってしまった。この判断の誤り、見通しの悪さから、歴史的な事件の目撃と取材のチャンスを逃したのである。

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プラハの反警察デモは11日に始まり、14日にはチェコ共産党の幹部会がこのような活動の自由は許さず、「騒ぎと暴力」をあおる言論の自由を許さないと警告していた。同じ日、ソ連共産党の機関紙『プラウダ』が、「チェコの新聞雑誌は、言論の自由を悪用して、反社会主義勢力をあおっている」と、非難の矢を放った。

17日のドプチェク演説は「民主化には国内秩序の維持が必要であり、反警察運動は民主化に逆効果」というものだった。

このあとさらに『プラウダ』は「反動のあつかましい攻撃」と題する論文をかかげ、反警察運動は「外国の支援のもと、共産党の指導的役割を弱め、社会主義共同体からチェコを切りはなそうとする右翼反動の新たな企み」と非難した。

こうしたソ連の動きは、ドプチェクに反警察デモの制圧をうながし、これを機に、民主化路線とは逆のコースを歩むよう求めたものと言える。しかしチェコ側がデモをやめさせようと努力しているのに、いかにも性急であり、しつこ過ぎる。

ひょっとして、これはもっと別の狙いを持った「くせ球」かもしれない。反警察デモ自体、どうもうさんくさい。チェコ内部の保守派とソ連派が組んだ挑発であり、これでいっきょに情勢を緊迫させ、ソ連軍を呼び込もうと企んでいるのかもしれない…と、いくらでも勘ぐることができたが、やはりソ連とチェコの「和解」宣言はわずか2週間前、という思いが頭を離れなかった。

その宣言は、社会主義共同体の団結の必要を強調しながらも、各国の平等、主権と自主性の尊重、領土保全をはっきりと認めている。いかにソ連が大国主義の国であるにせよ、こんなに早い時期にそれを反故にするとは考えられないと、自分で自分を納得させてしまった。

チェコの人たちの民主化の夢を、なんとか実現させてあげたいという判官びいきも、目を曇らせていたようだ。

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私が初めてプラハを訪れたのは66年5月だった。ゆったりと流れるブルタバ川は陽光に輝いていたが、人々の表情は生気にとぼしく、沈滞した気分に包まれていた。

チェコの経済は、60年代に入ってからマイナス成長を記録するようになった。プラハでは慢性的なエネルギー不足が続き、しきりと停電が起きている。

都心のバーツラフ広場にたむろしていた3、4人の学生は、私が日本の新聞記者と知って、憂さを晴らすかのように、最高指導者で名うてのスターリン主義者、ノボトニー大統領(共産党第一書記兼任)批判をやりはじめた。

もっぱらソ連一辺倒をあげつらうのだが、通行人が近づくと必ず話を中断するのが印象的だった。当時この国は、3人あるいは4人に1人が秘密警察の情報提供員といわれるほどの密告社会と見られていた。

68年の3月、再訪したプラハはまさしく春たけなわ。人々は晴れやかに街角、大学キャンパス、レストランで政治論議を交わしていた。バーツラフ広場では、まだ印刷インクの香りがする新聞を奪い合うように買い求めている。検閲は実質的に廃止され、これまでなら隠されていた真実、書けなかった事柄が紙面を飾っていた。

人々は監視されている不安、密告される恐れから解放され、率直に発言、提案、決定する自由を手に入れたのである。

5カ月後の8月20日にソ連軍が侵入すると、プラハ市民は、中世以来の入りくんだ街路の名称標識のほとんどをはがし、文字通りの迷路にしてしまった。地下放送局が市内を転々としながら、ソ連の非を訴え続けた。

こうした抵抗も次第に難しくなり、人々は再び静かに耐え忍ぶ生活に入った。しかし、ソ連軍侵入から9年後の77年、劇作家ハヴェルら不屈の文化人を中心として、反体制運動「憲章77」が発足した。

さらに12年後の89年11月17日、学生5万人が20年来の大規模デモを繰り広げた。20日には、20万人の市民に埋まったプラハの街にドプチェクが姿を現わした。

チェコの新しい革命は、10日もたたずに勝利し、29日には大統領にハヴェルを選んだ。このころゴルバチョフ共産党書記長のもと、ペレストロイカを推進していたソ連は、もはや東欧に干渉する意志も力も持っていなかった。

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私は新聞記者として失策をおかしはしたが、チェコの人々が20年かけて綴ってきたドラマの一端を見ることができたのは、またとない貴重な体験であった。

もりもと・よしお 1930年生まれ 55年読売新聞入社 モスクワ特派員 ワシントン支局長 論説委員 外報部長 84年桃山学院大学社会学部教授 著書に『日本にとってのソ連』『ソビエトとロシア』『冷戦 人と事件』など

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