ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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皇族から〝奥さん〟への感想(岡村黎明)2005年2月

緊張と解放感が半々:
雅子妃のご静養、皇太子の異例の発言、秋篠宮の反論会見、天皇のお言葉、女帝問題…戦後民主主義下の象徴天皇制が、ここへきて大きく揺れている感が強い。紀宮内親王と黒田氏の婚約発表は明るいニュースだが、皇室の問題をめぐり、国民の間にもさまざまな議論が広がっている。

駆け出しのころ、宮内庁を担当した私にも、本欄に登場するベテラン記者諸氏のような勇ましい話は全くないが、思い出はいろいろある。

昭和天皇の五女、清宮貴子内親王と輸出入銀行勤務の島津久永氏との結婚は、紀宮と黒田さんのケースに似ている。皇太子の結婚とはひと味違った親しみやすさを国民が感じるからだろう。私は、大阪本社報道部から2年生で東京支社に転勤。青天のへきれきで、1958年(昭和33年)秋、宮内庁(千代田クラブ)通いに。皇太子(現在の天皇)の結婚が近かったからだ。

用語にはじまり、儀式、典礼など気骨の折れる記者クラブの筆頭だ。しかし、正田美智子さん(現皇后)の周辺取材などを始めたりする中で、皇太子と全く同世代であることをあらためて感じた。何といっても〝ミッチーブーム〟が皇室の民主化、いや日本の民主化の象徴のように感じられたからだ。
59年(昭和34年)4月10日の皇太子・美智子妃のご結婚パレードは、NHKに対抗して、民放2グループも沿道をテレビ生中継。テレビ史上、受信機普及を飛躍させるナショナル・イベントだった。

清宮は、〝おスタちゃん〟の愛称で親しまれ、皇太子ご成婚の直前、59年3月婚約発表、翌60年3月10日、高輪の光輪閣で結婚式。式を終わって天皇・皇后両陛下と新夫妻が出てこられたが、昭和天皇が貴子さんに小声で別れ際まで語りかけられる様子は、あれこれ心配する花嫁の父そのものだ。

お二人の記者会見は、式場中庭に面するベランダで行われ、やわらかい春の光がさしていた。内親王の結婚(臣籍降下)は何度もあったが、民間から皇室に入った皇太子妃の記者会見後、皇室から民間に嫁がれる貴子さんから、どんな話が出てくるか、新鮮な期待があった。

 クラブ幹事の代表質問、宮内庁古参のベテラン記者の質問など新聞社の質問が続く。黒田さんの婚約会見ではTBSが幹事質問の口火を切ったが、時代が違う。島津貴子さんとなった花嫁はニコニコ、ときに笑いくずれ、雰囲気はよい。

新米、20代半ばの民放記者の私はじっと質問のチャンスを待つ。皇室がどこまで開かれたものとなるか、温めていた質問が私にはあった。会見時間は15分、先輩を立て、だが、時間切れ前に。2年近い皇室取材と、皇族の教育にあたった米国人女性の話などから”貴子さんは答えてくれる〟との確信もある。そこで、手をあげる。

「皇族を離れて、新しい環境に入られますが、緊張されていますか。それとも解放された感じですか」
すぐに答えが返ってきた。

「しいて言えば半分ずつくらい」

ご本人も記者たちも大笑い…。うまい。そういう答え方もあったか、〝しまった〟。その心の内をみすかされたように、貴子さんは「まだピンとこないんです」と補足された。

このあと外人記者の質問などあって、会見は終了した。テレビ、ラジオではインタビューのやりとりも大事だ。内容が本筋の新聞とは少し違う。放送はこの応答を多くの局が使ったが、新聞が記事にし、見出しに据えた社があったのは予想外だった。〝緊張と解放感が半々〟(朝日)、〝緊張と喜びが半々〟(日経)…などなど。

貴子さんが質問をどう思われたか。その後のわが社の取材、番組出演にいつも好意的に協力してくださった。

ところで、在阪局の東京取材の中心は政経系だ。宮内庁もヒマになり、国会や官邸取材の私は、外交、国際関係、日米関係の取材に力を入れたいという気持ちがあった。日米安保改定が重要課題として浮上していた。民放記者の取材拠点が必要だ。しかし外務省記者クラブは、新規加入の難しいクラブとして知られていた。入会に苦労したはずの 〝公共〟放送が民放の加入に反対している、と新聞社側はいう。

次善の策として、民放のクラブをつくろうと、在京、在阪社の仲間と話し合い、大蔵省にかけ合った。戦災で庁舎が焼失した外務省は大蔵省(当時)に間借りしていたからだ。庁舎を管理している大蔵省総務課長が話を聞いてくれるという。名刺には〝鳩山威一郎〟とあった。鳩山さんは話が早かった。テレビの時代が近い、と見通していたのかもしれない。「大蔵省の取材もするなら、部屋は何とかしよう」。こちらとしては願ってもない。

「大蔵・外務民放記者会」の看板は、内庭を入った正面玄関の階段の踊り場の下に掲げられた。要人の車寄せの真ん前、絶好の拠点だった。

60年3月、外務省北館完成と同時に、民放記者会の部屋を確保。〝常勤〟が条件だ。他の仕事を消化しつつ、泊まり明けの日中も活用、同期生に無理を言い、外務省に通った。

在京社でも常勤は厳しく、TBSの阿部修二郎記者と2人でクラブを死守した日もあった。文化放送の佐藤知恭記者、日本テレビ、NET(現テレビ朝日)など在京テレビ社も戦線に加わって、〝クラブ〟の実態が整ってきた。10年後、70年10月に外務省本館(中央館)が完成と同時に霞クラブに合同。民放の外務省取材は、何とか先発社に並ぶ。

60年代はラジオの全盛期から、次第にテレビの時代となるが、在阪のわが社は、新聞社からのニュース以外は(通信社との契約も難しく)、独自取材が不可欠だった。組閣のたびに朝日放送のテントが官邸に立ち、後楽園にはABCのゴンドラがぶら下がっていた。60年5月、安保改定通過の当夜は私も、官邸前の中継車の屋根の上にいた。

そういう中で学んだことは、できるところは民放他社と〝協力〟することだ。70年大阪万博では大阪勤務となり、開会式、閉会式の民放共同制作、全国ネット、海外への生中継に働いた。

80年代に入って東京在勤の解説委員を命じられた。さてどう取り組むかと考えているとき、同じような
立場の小巻元隆さん(毎日放送・故人)と「勉強会をやろう」で意見一致、川内一誠さん(テレビ朝日)の3人に、のち川戸恵子さん(TBS)も幹事に加わって、「民放解説研究会」が始動。小巻さんの後をついだ鈴木勝利さん(事務局長・毎日放送)の記録では、第1回は86年2月4日、ゲストは田中秀征さんだ。場所は日本記者クラブ、昼、カレーとコーヒーが定番、年10回平均。民放のニュース番組、日曜朝の討論番組、ワイドショーなどに若手政治家が次々登場するきっかけに。01年5月から小泉総理との民放解説委員の懇談が実現。03年の研究会新年会には小泉、菅両党首が出席、〝国会を面白くしよう〟と語り合ったとか。

半世紀をかけて、民放の報道態勢も何とか一人前に成長した感はあるが、大新聞の取材態勢を追うのではなく、全く別のシステム、オポジット・ジャーナリズムを追究する道もあったかとも思う昨今だ。


おかむら・れいめい 1933年生まれ 56年朝日放送入社 報道部記者 プロデューサー 東京支社編成部長 国際部長 解説委員などを経て91年立命館大学教授 98年大東文化大学教授 04年同大学講師 この間米WPIフェロー 米東西センターフェロー ハーバード・ケネディスクール客員研究員
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