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中国指導者の思い出(中島宏)2004年9月

個性的で大胆不敵な人物像
1970年代と80年代前半に共同通信の北京駐在記者だった頃、今はすでに歴史の扉の奥に入ってしまった多くの政治家たちを垣間見る機会に恵まれた。情報統制により確実な情報が極端に少ない中国では、政治家を直接あるいはテレビなどで見て観察し、何かと推測することが多かった。それだけに彼らを観察した印象は今も鮮烈に記憶に残っている。

最初の時期は中国革命の元勲、毛沢東、周恩来らが健在で、ニクソン米大統領の訪中による米中接近、田中首相の日中国交回復などがあった。この中では次々に訪中する日本人、その他の外国からの訪問者に、周恩来首相がひんぱんに会見した。そんな時、会話の内容、気配りで、まるで魔術師のように外国人を魅了してしまう彼の能力に驚いたものである。彼が中国革命中に、天才的ともいうべき交渉力により、国内各派、知識人らを味方につけ、軍事的には弱い共産党の政治基盤を固めた様子がよく分かる思いだった。訪中日本人の間では、左右の別を問わず周恩来崇拝ともいうべき現象が見られたし、口うるさい欧米人たちも、彼に会った後、悪く言う人はほとんどなく、皆が満足しているようだったのも不思議なほど。公開された彼とニクソン、キッシンジャーとの米中交渉記録を読んでも、あれほど狡猾でしたたかな2人が、彼にはすっかり参ってしまっているのが読み取れる。

彼は会見の際の握手では、相手の目をじっと見つめ、誠意を込めて挨拶する。また会見に当たっては詳細な事前調査をするので、内容も実のあるものになり、相手に満足感を与える。若い頃日本に滞在していたことがあるせいか、いろいろな面で日本びいきと感じたが、同時に今の中国人にも共通する非常に厳しい対日観を根底に持っていた。彼には会見の待ち時間などでよく挨拶したが、いつでも質問のチャンスがありそうで、実際にはすきがなく、彼の側の話を聞くだけに終わってしまった。

中国の若い知識人の間では、彼が毛沢東の左の政策に反対せず協力したことで批判する向きも少なくない。しかし今でも一般国民レベルでは最も敬愛されている指導者という。最近、彼らが戦争中に立てこもった延安の洞窟を訪れると、ここでも彼の旧居が国内観光客の一番人気だった。

もう一人、思い出深いのが鄧小平だ。彼に初めて会ったのは、文化大革命で失脚した彼が1973年4月に復活した際のこと。彼が人民大会堂で開かれた周恩来主催の大宴会の直前に、中国幹部や外国人の前に突然姿を見せた。事前に彼が登場するとのヒントを得ていた私は、それが実現したのに驚き思わず前に進み出て握手した。いかにも労働をしていたことをうかがわせる固く分厚い手だった。居合わせた中国人幹部たちは、復活して間もない大物の出現にどう対応してよいのか戸惑っていたようで、だれも近づかなかった。宴会前に慣例を破って大会堂から家人に電話した私の一報が、延々と続いた宴会の間中、特ダネとなって世界を駆けめぐった。

その翌年春、彼が国連の特別総会に出発する際、北京空港に行くと、当時、国内政治で彼と対立していた左派の毛沢東夫人・江青ら、後に4人組と批判される人々も来ていた。日本人記者が写真を撮っていると、周恩来が皆を集めて記念撮影をさせてくれた。彼の気配りのおかげで左右両派の「呉越同舟」ともいうべき歴史的な写真が撮れた。当時は両派の対立が外国人の間のうわさになっていたこともあり、今から思うと、周恩来は対外的に内紛をカムフラージュしようとしたのかもしれない。

鄧小平とはこの年に、共同通信加盟社の社長代表団と共に2時間以上もの長時間の会見をしたことがある。側近を気にしながらの発言ながら、簡潔で巧みな表現に感心した。謙虚で物静かな人という印象だった。この際、彼は旧ソ連を激しく批判した中で「社会主義大国が資本主義に変わるとソ連のように社会帝国主義になる。ソ連以外に資格のあるのは中国であり、そうならないために毛主席の教えを学んでいる」という趣旨の発言をした。資本主義に限りなく近づいている最近の中国の変貌ぶりを見ると、何とも皮肉に思えるが、また含蓄に富んだ言葉でもある。

80年代に見た彼は、もはや以前とは異なり、最高実力者として、すっかり自信に満ちた態度で外国代表団に接した。握手する手も柔らかい感触に変わっていた。

毛沢東は1970年、天安門前広場で開かれた反米集会で、天安門楼上の人民服姿を見ただけだった。当時はまだ大変元気なようで、大柄の体を揺すりながら、しきりに大衆のデモを観察しているのが見えた。集会では、毛の後継者とされながら、この翌年に〝反毛クーデター〟に失敗、ソ連に逃げる途中、飛行機事故で死亡したとされる林彪将軍が演説した。すでに病身だったはずだが、さすがに千軍万馬を率い、天才将軍と言われただけに、予想外に力強く、大きな声だった。だが湖北訛りが強く、まるで別の国の言葉を聞いているようでもあった。

日中関係では郭沫若と廖承志の両知日派幹部がよく姿を見せた。いつも無表情な郭氏に対し、廖氏は明るい人で、記者たちによく声をかけて来た。日中国交回復が実現した際の田中首相のお別れ宴会で、陽気にはしゃぐのでなく、じっと物思いにふけるような二人の表情を忘れることができない。過ぎし日の労苦をしみじみとかみしめているように見えた。
 
毛沢東夫人の江青は他の中国の女性とはまるで違うタイプだった。日本人の前には出て来なかったが、ニクソンやフランスの大統領が来た時などには姿を見せた。60歳近かったが、若々しく色白のあごのあたりもふっくらとして、そこはかとない色気も。だがいつも「笑わない女」というイメージで素っ気なかった。それが先の鄧小平の国連への出発見送りの際には、いつになく、くつろいだ様子で周恩来と親しそうに話し合い、まるで違った印象を受けた。周恩来との個人的な関係は悪くないとの中国人の話がうなずける光景だった。
 
同じ左派で、いくつもの党内粛清にかかわり、党副主席にまで上りつめながら、死後、党を除名された康生は、すらりとした長身で、口ひげをたくわえた粋な老人だった。握手するとピアニストのような細い指に爪も長く伸ばし、まさに左派が批判の対象にした、労働の経験が全くない典型的な文人タイプだったのは意外だった。

80年代に鄧小平の後継者といわれた胡耀邦党総書記は、彼が顔を見せただけで周辺が愉快になるような人物だった。本人もいつも笑顔で明るい。保守派の攻勢で引き締めが厳しい時期にも、知識人たちは彼がいればいずれは自由化が進むと見ていた。私が帰国後に失脚し、間もなく死去したが、彼らの失望ぶりがよく想像できた。彼の死をきっかけに起きた天安門事件もそうした気分が背景にあったのは間違いない。

私が見た中国指導者たちは、その生き方の是非は別にして、さすがに中国革命の疾風怒涛の時代を駆け抜けて来ただけに、この上なく個性的で大胆不敵な人物ぞろいであった。

なかじま・ひろし 1934年生まれ 58年共同通信入社 香港支局長 外信部次長 北京支局長などを経て編集委員兼論説委員 札幌支社長 KK共同国際資料室長 97年退社 現在は大東文化大学講師 (社)中国研究所理事
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