ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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長時間インタビュー(相田洋 )2004年7月

ビル・ゲイツの「いい素顔」を撮る
私が制作する番組は概ね主要人物の長時間インタビューによって作られる。1996年に放送した「新・電子立国・ソフトウエア帝国の誕生」もマイクロソフト本社の取材と創業者のビル・ゲイツ本人に長時間インタビューをする必要があった。そのためには、彼に私達の企画を支持してもらい、あわよくば彼の号令でマイクロソフトの取材が過不足なく実現できればと願った。

そこで彼が日本マイクロソフト社に来た時、私達は前作の「電子立国・日本の自叙伝」を十分の英語版にして持参し見てもらうことにした。画面にはトランジスタの発明者でありノーベル賞受賞者でもあるウイリアム・ショックレーやジョン・バーディンをはじめ半導体産業の父と呼ばれたロバート・ノイスまで先覚者達の顔と業績が次々と現れた。

試写が終わると間髪を入れずに切り出した。「ここまではハードを築き上げた人達のシリーズです。これから作ろうとしているのはソフトウエア産業を築き上げた人達のシリーズです。その中で一番重要だと考えているのが貴方と貴方の会社です」。真剣に聞いていたビル・ゲイツは大きくうなずき、私達の企画に賛成の意を表明し取材に協力してくれることを約束してくれたのである。

ところが、実際にマイクロソフト本社を訪ねてみると、広報担当者との交渉が少しもはかどらない。特にビル・ゲイツ当人をわずらわせる事柄になるインタビューに2時間など絶対に割けないと言い、頑として首を縦に振らない。やがて、いろいろなことが分かってきた。

ビル・ゲイツが私達に取材協力を確約して帰国した後に事態が急変したというのである。

その原因は、CBSの放送にあった。有名な中国系アメリカ人の女性キャスターであるコニー・チャンがマイクロソフト社を彼女の担当枠で取り上げた。マイクロソフト側は、絶好の宣伝チャンスとばかり彼女のあらゆる要求に応じたそうである。その放送のビデオを見て私達は仰天し、天を仰いだ。おおよそ15分の特集ニュースだったが、その中でコニー・チャンがビル・ゲイツに「ビル。あなたは小さい時から椅子飛びが得意だったんですって、今やって見せてくれる?」と聞く。するとビルは「いいとも」と言って得意気に傍らの椅子をピョンと飛んで見せたのである。

番組はなごやかに進み、上機嫌のゲイツは饒舌にしゃべった。間もなく終わりというころになって、コニー・チャンがさりげなく切り出した。「ビル、話は変わるけど、独占禁止法違反のことだけど……」。  上機嫌だったビルの顔がたちまち険しい表情になって、問答無用とばかりに席を立ち、ドアを蹴るようにして部屋を出た。番組はそこで終わっていた。

●約束の半分の一時間
 
マイクロソフトの広報女史が突然スケジュールの変更を通告してきた。ビル・ゲイツのインタビュー時間を約束の2時間から1時間に短縮するというのである。私達は粘り強く広報女史を説得したが、結局インタビューの時間は増えなかった。こうなると選択は二つに一つである。質問項目を間引いて半分に削るか。あるいは予定通りの質問を行うか。思案の末に私は翌日のインタビューは間引くことなく敢行することにした。

ドキュメンタリーの取材で大事なことは「読み」である。事態の先行きに対する読み。人物の性格や考え方からくる行動の読みなどである。この時も、二つの選択肢について、それぞれのもたらす結果を考えた。質問項目を一時間に短縮した場合、広報女史が喜んでも私達の先行きにチャンスが広がるわけではない。彼らはこれでビル・ゲイツのインタビューは完了したと思うだけである。だから二度目のチャンスは皆無になる。

予定通りのインタビューを敢行したら、途中で尻切れトンボになるのだから「もう一回」と頼む口実ができる。また、2時間予定のインタビューが進んでいけば、彼の半生が大学時代の入り口に差しかかったところで時間切れとなる。これからいよいよ「マイクロソフト・ベーシック」の開発に成功して会社を設立する直前である。それは決して良い気分がしないに違いない。ひょっとすると彼のほうから「続きをやろう」と言いだすかもしれない。そう考えたのである。

●〝いい顔〟いただき

インタビューの場所は彼のオフィスをお願いしたが、広報が用意した場所はガランとしたところにそれらしき机を置いただけの空き部屋であった。そこに快活なビル・ゲイツが息せき切ってやってきた。事前の用事が延びたのか約束の時間に15分も遅れている。これでは折角もらった時間帯の残りが四五分しかない。それは瞬く間に過ぎた。

インタビューの途中で広報女史が「終わりです」と告げた時、話はまさに「マイクロソフト・ベーシック」開発のクライマックスにさしかかっていた。私達は即座に「この続きを聞く時間をどこかでもらえませんか」と切り出した。するとうなずいた彼は即座に秘書に電話して過密な予定の中から一時間を捻出させたのである。私達の読みが的中したようであった。

2度目のインタビューは出張先のホテルの部屋に決まった。私達は南に飛ぶ彼を追ってシアトルからアトランタまで、大陸を斜めに横断した。アトランタで開催された展示会で彼がスピーチした後の一時間を彼が割いてくれたのである。普段はエネルギッシュな彼が、その時ばかりは疲れた顔を苛立たせ、しばしば辛辣な言葉を放ち、隠すことなく厳しい表情を見せた。それはジェスチャーたっぷりに語った先日の彼とは別人のように攻撃的でとげとげしかった。

その顔を大写しでとらえて廻るカメラを見て私は心中ひそかにつぶやいた。「しめた、いい素顔が撮れてるぞ、ウフフ」。

あいだ・ゆたか 1936年朝鮮全羅北道(現韓国)生まれ 60年NHK入局 「ある人生」「乗船名簿AR二九」「核戦争後の地球」「自動車」「電子立国・日本の自叙伝」「マネー革命」など数多くのドキュメンタリーを制作 慶応大学教授を経て現在フリーのディレクターとして活動 96年度日本記者クラブ賞受賞
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